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第31話 ズレたヒート

「チュッ、──じゃ、行ってきまーす」  永井は今日も慶介のほっぺたに『行ってきますのチュー』をした。  昨日も一昨日もして酒田に殴られ、今日こそしないだろうと信じていた慶介は『もう、どんなにゴネたって見送りはしないッ!』と決意した。 (しかも、アイツ、禁止だって言ってる誘引フェロモンを僅かに乗せてキスしてきやがる。そのせいで、こっちがどれだけ体の反応を抑え込むのに苦労してるか理解してないんだ。くそ、ぼけ、あほ!)  心中で永井に罵声を浴びせ、胸を抑えた。ちょっと動悸がする気もするけど、誘惑フェロモンが出ないように自制はできていると思い、慶介はいつもどおり自習室へ向かった。  宿題を終わらせ、昨日の続きの問題集を借りようとしたらアルバイト講師から『君、ヒート近いのかな? フェロモンが出てるよ』と指摘を受けた。  近くに座っていたアルファにも確認すると『君かなとは思ってた』と、同じく誘惑フェロモンが僅かに出ていたことを言われる。やっぱり、永井にされたキスのせいで擬似ヒートになっていたのかもしれない。手早く荷物をまとめて避難スペースに向かった。  追加の抑制剤で収まるだろうか、と、薬の効果に不安を覚えながらもひとまず飲んでおいた。同時に、酒田には『部活終わったら、自習室の近くの避難スペースに迎えに来て』と伝言を残し、ベッドに横になった。  10分程経ち、抑制剤が効いてきてもおかしくないのに、慶介の体はゾクゾクとした寒気と軽い微熱がでてきて、脈拍も平時より早い。風邪の初期のような、疑似ヒートの症状とは少し違う体の反応に慶介は戸惑った。  そのうち、下腹部がズーンと重ダルくなってきて、時々ぐりっと痛みがでてきてので、下痢かと思ってトイレに籠もったが腹痛は終わらない。時々だった痛みが断続的になって、『痛み止めの薬でもないだろうか?』と部屋を漁るが、あるのはカロリーバーのような食料とゼリー飲料だけ。  ついに、痛みの波が激しいと動けなくなってきたので緊急通報ボタンを押す決意をした。 **  避難スペースから通報を受けて駆けつけた保険医は、床に倒れてうずくまる慶介を見つけて驚く。避難スペース内は濃厚な誘惑フェロモンで充満していたので、慶介の状態をヒートに入ったと判断した保険医は緊急抑制剤を打ち、応援要員と慶介の補佐扱いである酒田が呼び出された。 「ヒート?! そんな、予定は1週間後です!」  呼び出された酒田はヒートに入ったと判断されたことに驚き、焦る。  焦るのは家のヒートシェルターの準備ができていないからだ。ヒートは来週の半ばだろうと予測されており、準備は今週末にする予定だった。一般的な家庭と違って、慶介の家はヒート中にシェルターに入室出来る者がいないので籠城準備が万全でなければ慶介をシェルターに入れられない。  酒田はトラブル発生の連絡を飛ばし、景明には電話をかけた。電話先に一緒にいたらしい水瀬が問題視したのは、慶介が腹痛を起こしている事だった。シェルターの準備はすぐにでも可能だが、ヒートと病気が被っている場合、家では対応がワンテンポ遅れてしまう。その点を心配した水瀬の意見により、今回は学校のヒートシェルターを利用する事になった。  酒田が保険医に、学校のシェルターを利用すると伝えると、シェルター職員が持ってきたカプセル担架で慶介が運び出される。  その姿を見送りきる前に、別の職員からシェルター利用申請用紙の記入を頼まれる。  申請さえ出してしまえば、もう、酒田に出来る事は何も無い。同居を隠しているために緊急連絡先に名前は書けず、ヒートが終わるまでは待機となる。 (電話がかかってくることもないしな・・・。) **  学校のヒートシェルターに運び込まれた慶介は、ズクズクと鈍く痛む腹を押さえながら、決まりだというシェルター利用規約を口頭で聞かされる。  要するに、慶介がシェルターから出るには自分の足と意志で出ていくか、医師が外部の医療機関の利用を判断した時だけ、という事。あとは、ヒート中は最低でも1日1回は職員が食事と健康状態の管理のために入室する、という事も説明された。  常駐する医師が薬の処方と管理もしてくれるので、電子お薬手帳を送信してから、ビジネスホテルのような、こじんまりとした部屋に案内されて速攻でベッドに丸くなった。  緊急抑制剤が切れてくると腹痛が激しくなる。うめき声を上げる慶介にシェルター職員のサポーターが言った。 「あなた、運命の番がいるんですって?」  否定したいが声が出せない慶介にサポーターと医師が畳み掛ける。 「運命の番がいるなら相手をしてもらう方が楽にヒートを過ごせます。運命の番ならその腹痛も直せるでしょう。むしろ、運命の番と離されたから腹痛が出ているのかもしれません」 「オメガの本能が運命の番を呼んでいるんですよ」 「我々は番がいるのでフェロモンに反応することはありませんが、君が出している誘惑フェロモンはものすごく濃いですよ。緊急抑制剤を打っているのに、です」  運命の番という単語に反応するように、ギリ、ギリ、と腹が絞られるように痛み、『もう黙って』『放っといて』『1人にして』と、思っている言葉は1つも音にならず、はくはくと口だけが動く。  医師から見れば、何か伝えたいことがあるように見えるので、余計に声掛けが続き、見当違いな質問を投げかけられ続けた。  薬が本当に切れてしまうと、一層強まった痛みに叫び、弱音を吐き、滲み出る涙を枕に押し付けて耐えた。  医師から『2時間空けたらもう一度、緊急抑制剤を打って、それでも腹痛が収まらなければ別の薬を試しましょう』と言われた言葉を希望に、絶え間なく襲ってくる痛みに負けまいと気を張った。  気力の糸を張り詰めて耐えた慶介が、2時間後に聞かされたのは『緊急抑制剤は打たない』という言葉。  更に、医師はこうも言った。 「一番の薬はアルファです。ヒートの熱を収めてほしい相手はいませんか?」  ──慶介は喚いた。 『運命の番なんていない! アルファは呼ばない! 1人で良い! もう出ていけ! みんな、出ていけ!』  ──そして泣いた。 『いたい・・・なんとかして・・・くすりちょうだい・・・くるしい・・・なんで、おればっかり・・・ながいはどこ・・・さびしい・・・』  医師は、今の慶介は一種の錯乱状態だとして発言の一つ一つを本人の意志とは取らない。だが、サポーターは慶介の泣き言をいちいち拾い上げて『ながいという子を呼びましょう!』などと言い、そのサポーターの発言は、慶介の癇にさわり、怒りは慶介に理性を取り戻させる。  痛みを引き起こした原因の永井に怨嗟の言葉を言い連ね、サポーターには『永井を呼んだら自殺するからな!』と脅し黙らせた。 *  医師が、外部の医療機関に搬送して鎮痛剤を投与するかどうかの判断に迷っていた時、サポーターが独断専行して永井を呼び出した。  このサポーターの女、やる気があるのは結構だが、先程は慶介が自殺するとまで言ったのに、余計なことをして・・・と、医師は怒った。 「私は医師として、彼の発言はせん妄だと判断しました! 『ながい』の呼び出しを指示した覚えはありません! 勝手なことをしないでください!」 「わ、私はっ、せめて運命の番のフェロモンがあればと思ったんです! 『ながい君』を呼んだわけではありません。ヒートの巣材を依頼しただけです!」  こんなやり取りを目の前でされた永井は、流石に期待していた『ヒートのお相手』ではなかった事を察してガッカリしたが、慶介が苦しんでいることを知れば『ぜひとも問題解決に使って欲しい』と着ていた服を全て提供した。 *  医師が慶介の意志を確認するため、緊急抑制剤を打つ。痛みが引いて落ち着きを取り戻した慶介に、医師は2つの選択肢を提示した。  1つ、医療機関に搬送して鎮痛剤を点滴し、病院でヒートを過ごす。  2つ、届けられた永井の服を試す。  病院に行けば、オメガの医療費控除を受けてても10万円程度の費用がかかり、経過観察のために次のヒートも病院で過ごさなければならないので、合計20万ほどかかるらしい。  一方、服は善意で提供されたものなので、破損しても弁償する必要もない。ただ、服でも腹痛が治らなければ、やはり病院に搬送するとのこと。  医師は控えめに提案した。 「どうせ病院に搬送されるかもしれないのなら、一度、服を試してからでも良いと思うんだけど、やっぱり、アルファの服すらも嫌かな?」 「じゃぁ・・・試すだけ、試してみる」  慶介は医師から渡されたチャック付きの密閉袋に手をかけて、深く深呼吸をする。  中にあるのは慣らしでも使った覚えのある永井のインナーシャツ。フェロモンの慣らしではフェロモンに抵抗することを意識していたが、今回は自然に、川の流れに乗るように、フェロモンに本能を委ねなければ、と理性を遠くに押しやり袋に指をかけた。  チャックを開けると、永井のフェロモンがふわりと広がり、白とピンクの幻想的なイメージフィルターが目にかかったようになる。少し古いビジネスホテルのような部屋がキラキラと光って可憐な印象に変わってしまった。  攣ったようにガチガチに緊張していた筋肉が緩み、痛みの塊が、水に溶ける角砂糖の様に崩れて消えていく。  緩んでいく体と心、全身の隅々まで甘いフェロモンが浸透していく感覚に、パタリと上体を倒した。 「大丈夫ですかっ?」  医師が慶介の顔を覗き込み聞いてきた質問に、慶介はふるふると頭を横に振った。このまま本能に身を委ねたらどうなってしまうのだろうと不安になるくらい頭がフワフワしていた。 「お腹は痛いままですか?」 (・・・そうだった、お腹が痛かったんだ)  一瞬だけ理性が戻った頭が、永井の服を試した理由を思い出し、慶介はまた、ふるふると頭を横に振った。 「痛くないんですね?」  コクンとうなずき返す。  医師は、深い長い溜息をついた。  それは安堵のため息だったのだが、慶介はそれがきちんと答えなかったことを叱られているのだと勘違いして、必要以上の説明を始める。 「せんせ、痛くない。フェロモン、気持ちいいです。あの、ここ・・・お腹がな、痛くなくなったん、気持ちいぃ。ここ、ポカポカするん。あちゅあちゅすゆ。・・・こんなか、クチュクチュしたい」  急に喋りだした慶介が今にも泣きそうな様子であることに慌てた医師は、緊迫感から出ていた厳しい雰囲気を改め、優しい態度と言葉遣いに変えた。 「──っ、わ、わかった。そっか、痛いの無くなって良かったね。これ、分かるかな? 病院にあるナースコールと同じやつだから、またお腹痛くなったらすぐに呼んでね。先生が外に出るまで、もう少し待てるかな?」  ペンやメモ帳をサッとポケットに仕舞って扉に向かう。医師が最後の確認に振り向いたタイミングに、慶介は僅かに残った理性で感謝を告げ、小さく手を振った。 「せんせ、ぁいがと」 **  医師は、手を振り返してドアを閉める。施錠を指差し確認でダブルチェックし、事務室に向かいながら心の内で呟いた。 (いやー、可愛い子だなー)  学校のシェルターは、昔はオメガ患者の担当になるための登竜門なんて呼ばれていたが、今では利用者もほとんどいないローテーションで回ってくるクソほど暇な強制勤務。そのうえ手当は数百円というハズレ仕事。  利用者がいるだけでも『アタリ』なのに、医師として活躍できて、それがまたあんな可愛いイイ子だとは、今回の勤務は『大当たり』だ。 (勤務延長申請を出さなければ)  事務室に戻ったらする、やることリストの一番上に追加することにした。 ***

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