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第36話 永井
大運動会は、北海道で2泊3日で行われる。
大文化祭の時のようなベータっぽい行動は慎み、初めての飛行機だったが大人しくしておいた。
1日目は移動と予行練習。現地に到着してホテルに荷物を置いたら、全体の流れと個人競技の人の集合時間と場所の確認、クラス競技ではスタート位置の確認と素早く団体移動する練習も少しだけした。
あと残りの予定は、大運動会のために作られたアプリの運営テストが待っているという頃。
競技場のトイレで騒動が起きた。
誰かが凄まじい威圧フェロモンを出しているらしい。
伝播して聞こえてきた声の中に『永井』の名前が聞こえた。野次馬根性のあるやつが確認に行くと、本当に騒動の原因は永井らしく、そいつが言うには『このまま放置すると永井は明日の大運動会も出席停止になりそうだ』という話。大運動会運営委員が『大縄跳びの回し手の補欠は準備してないのに!』と焦り、慶介に言った。
「運命の番ならなだめられるかも知れないから、行ってきて!」
慶介は言われた意味が分からないが、周りの皆は運動会委員の言うことに同意している。ポカンとして酒田を見るも、こちらも反対する様子がないので『じゃぁ、まあ、行くだけ行ってみますけど・・・?』と向かうことにした。
凄まじい、獰猛な犬が噛み殺さんと吼え唸っているような、ヒトとして本能的に恐怖を感じる威圧だった。
また、周りの人間たち全てに対する敵意と殺意に満ちた、怒りの感情もバチバチに感じる。
その威圧を放つ永井は、東京校の3年生に馬乗りになって襟首掴んで抑え込んでいる。勇気ある誰かが止めに入るが永井に安々と振り払われていた。
周りの皆が威圧に気圧されて近づけもしない中、慶介は一人なんともない顔で騒動の輪の中心へ歩みを進め、永井の側まで行き声をかけた。
「永井、どうした? 何、そんなに怒ってんだ?」
慶介を見た永井の威圧がみるみるしぼんでいく。
「このままじゃ、お前、運動会に出れなくなるみたいだぞ? 何があったか知らねぇけど、その辺で止めとけって」
「・・・慶介・・・」
永井がやっと獲物を手放し、フラフラと慶介に寄って、呟いた。
「慶介・・・、あいつ、殺したい・・・」
「殺す? いやいや殺人は、ダメだぞ?」
永井の威圧がじわじわと膨らんでいく。
慶介は焦ったし、困った。
(えぇ~、本気で殺したいのか? ・・・うーん、なだめるって何したら良いんだ? えっとー、そうだなぁ・・・・・・、あ、そうだ!)
慶介は自分よりも7cm高い永井の頭をナデナデした。
「永井、良く我慢したな。偉いぞ、ヨシヨシ」
その瞬間、永井が謎のフェロモンを大量放出する。誘引フェロモンなどとは全く違う、そのフェロモンは威圧フェロモンを一掃し周囲の人は和やかな心地にさせられた。
永井がヒシっと慶介に抱きつく姿はでっかい子どもの様だ。あやすように背中をトントンして、永井の心が落ち着くのを待つ。
ゆっくりと顔を上げた永井はいつもの傲慢不遜な笑みをたたえ言った。
「やっぱ、お前が俺の運命だわ」
永井は、慶介の唇におふざけみたいなキスをした。
慶介は唇が受けた初めての柔らかな感覚を確認するように、自分の唇を指でつまみ、呆然としたまま固まった。
さぞ、怒るだろうと思っていた永井は拍子抜けした。ここで煽るようなことを言わないほうが良いとわかっているのに、言ってしまうのが永井の残念なところではあるが──
「うばっちゃった~」
つい、口を突いて出てしまった軽口。
みるみるうちに慶介の顔が染まっていく。恥ずかしさの赤から怒りの赤になり、いつかの可愛い猫パンチを笑えないくらいのしっかりと重みのある拳が肩や腹にぶつけられたが、自分が悪いとわかっている永井は甘んじて受け止め、声を上げて笑った。
さっきまでの騒動の張り詰めた空気は消え去り、周りは『何を見せられているのか?』と呆れ、騒動は納まった。
*
その夜。慶介は永井に呼び出されホテルのラウンジに来ると、酒田と木戸と、今までに見たことのない弱った顔をした永井がいた。
「慶介、俺の話、聞いてくれるか」
語られたのは、永井の輝かしい経歴と辛い過去。
永井の柔道は小学生の内から大会で優勝したりして将来を期待されていた。そこに『柔道の強化選手に選ばれるためにも中学は東京に来てはどうか?』と誘われ、永井は東京の中学校へ転校することを決めた。
柔道一色の中学生活。優秀な指導者と競い合える仲間、ライバルたち。永井の力と技はメキメキと伸び、磨きがかかっていった。
そうして迎えた中学生の一番を決める柔道大会。優勝に向けて最終調整に熱が入ったある夜、永井は学校の帰り道で金属バットで頭を殴られ頭蓋骨を骨折した。
幸いにして命に別状はなく、後遺症もなかったが、大会出場は断念させられた。この事件、永井は犯人が、当時中学3年生の柔道大会2連覇を狙っていた先輩だとフェロモンで気づいていた。
その先輩は後ろ暗いきもちがあったからか、優勝を逃した。永井はあえて大会が終わってから、その先輩に向かって『2連覇をした後で、その輝かしい栄光をぶち壊してやろうと思ってたのに負けてるやんけ。腰抜け野郎』と言って告訴した。
その翌年、中学2年になった永井は実力を見せつけるように中学生柔道大会で優勝し、翌年の中学3年では18歳未満が出場する世界柔道選手権で7位という素晴らしい好成績を残し、当然のように、中学生柔道大会も優勝し2年連続優勝を勝ち取った。
高校生になった永井は『もしかするとオリンピック最年少メダリストも夢じゃない』などと期待されていた。
そして、強化選手入りが決まる大会の目前で、永井はまたもや襲われた。
今度は相手が複数人で、最初にスタンガンで体の自由を奪われた後、殴る蹴るの暴行をうけ、その中で膝の皿を割られるという致命的な傷害を負った。
実行犯は逮捕されたが、依頼人と目される男は証拠不十分で釈放され、その後その男は、大会で優勝し永井がなるはずだった強化選手に選ばれた。
それを膝の手術後に知った永井は怒髪天を衝き、怒りの感情のままに威圧を撒き散らした。あんなに永井に期待を寄せていた人々が、その男を守るように庇い、永井の行動を責め、部活からは退部勧告を言い渡された。さらに学校からも出席停止命令を受け、学校には通わず授業はオンラインで受けた。
柔道が出来ない体、状況、環境に追い込まれた永井は『もう東京にいる意味はない』と、柔道選手という夢を諦めて大阪に帰ってきた。
昼間、永井が殺したいと言っていた3年生が、永井の代わりに大会に優勝し、強化選手に選ばれた男であり、永井が真犯人だと思っている男だ。
そいつがすれ違いざまに『膝は治ったか?』と言った。
その言葉に永井は抑えていた怒りが爆発した。
犯人かも知れないヤツが堂々と闊歩し栄光を手にしている。一方、こっちは膝に爆弾を抱えて、強化選手候補としての療養やリハビリの機会も奪われて、永井は柔道選手の夢を諦めざるを得なくなったのに、と。
「それを思うと、今でも怒りが抑えられない」
永井から怒りの威圧が漏れだし、慶介がすかさず永井の頭を撫でてやると威圧は霧散した。不遜な笑みの中に悲しみがにじむ永井に、慶介は初めて好感を抱いた。ずっと押されっぱなしだったのがやっと永井の方へ踏み込み、知る事ができたからだと思う。
「慶介の匂いを嗅いでいると怒りが凪いでいく」
「はははっ、俺はリラックスアロマか」
慶介は酒田以外に許していなかった気安い関係の1つ、髪グシャグシャを永井にもしてやった。まぁ、永井も短髪だし、風呂上がりのセットも何もしてない髪なので何の被害も無いけど。
「しかたねーから、運動会の間だけは匂い嗅ぐの許してやるよ。いいよな、酒田」
「慶介が決めたなら、そうしたら良い」
チャンスとばかりに慶介の腰を抱く永井に『そういうのは違う!』と剥がそうとするも、『心の回復がしたい』と弱った声で言われたら、なんとも言えなくなったので、顔だけ遠くに押しやりながら残りの二人に質問した。
「そう言えば、木戸がここにいるのはなんでだ?」
「情報開示命令だ」
「情報開示、永井の話のことか?」
酒田を見ると、反省の色が見える。つまり、酒田が意図的に情報を隠していたということか。
「酒田は君に、永井の中学時代の事件と高校で負った怪我とその経緯を隠していた。君が永井に遠慮する可能性を危惧して」
「遠慮?」
「もし、もしだぞ? 永井がレイプしてきた時、慶介は怪我した膝を逆に攻撃出来るか? 抵抗してる最中に、膝を押さえて『痛てて』なんて言われたら、むしろ気遣ったりしないか? そもそも、永井に同情して引き込まれるおそれもあった。だから、隠してたんだ」
「だが、大運動会中の永井をなだめるには君に頼るしか無い。永井の過去を隠したままには出来なかったから、風紀委員として命令した」
「じゃあ、みんなは知ってんのか?」
二人がうなずき、腰に抱きつく永井も小さく頷いた。バース社会は狭く、人間関係は濃厚で、話題になる噂は光の速度で広まる。
「慶介。知ったからには永井に同情し過ぎるな。本気で抵抗する時は、膝を狙え」
酒田は慶介から永井を剥がして、ジャージを捲くりあげ、永井の膝の怪我の跡がむき出しにされる。
「部活中に試したんだ。膝の少し上、このあたりをやや外に向けて押し込むように蹴ると良い。──こうやるんだ、な? ここを狙えば永井でも、バランス崩すか避けようとして一旦引く、あと、他には──」
傷口に向かって一切の躊躇なく、本当に足を蹴り込み、やり方をレクチャーする酒田に、慶介は内心、苦笑いになった。
(酒田・・・、お前も、結構ヒドいことできるんだな)
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