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第38話 ラット

「永井、くっつき過ぎだ。慶介も嫌ならちゃんと拒否しろ」 「もういい。諦めた」  永井は大運動会の延長線で慶介にベッタリだ。授業中以外は常にバックハグで、今はおでこをグリグリと押し付けて匂いを堪能している。  その行動は、永井の幼稚園時代を知っている板倉や竹林などには、オメガの後ろ襟を掴んで引きずり回していた姿とダブって見えるらしいし、知らない野本君にはアツアツの運命の番に見えるみたいだ。慶介の気持ち的には『ウザ絡みのターゲットにされた、ちょっとした軽いイジメかな?』くらいに思っている。 「はぁ~、慶介~、噛ませてくれ~」 「嫌だ。おら、授業始まるから席に戻れ」  前にカウンセラーと話をして『運命の番』が何か教えてもらった。  一般的に運命の番とは、フェロモンの相性で本能的に惹かれ合う者たちのことを指し、1万組に1組の割合でいると言われているそうだ。ただ、フェロモンはまだ科学的に検出出来ていないので、数値化出来るものではないため、運命の番は存在する現象ではあるが、まだまだ研究中とのこと。  ただ、バース社会の人間からすると、慶介が運命の番であると思われる永井を拒否するのは全くもって思考を理解できないことだ、とカウンセラーは言った。  運命の番はフェロモンで本能的に惹かれ合い、永井が慶介を好きになるのは当然のこと。アルファは運命のオメガの項を噛んで番にしたがるものなので、永井の求愛は止められるようなものではない。  逆に、オメガは項を差し出し番にして欲しいと言うはずなのに、慶介がそうならないのは不思議でならないのだそうだ。  本能で惹かれ合うものだと言われても慶介は永井を好きになったという感覚がない。体は確かにおかしくなったけど、これは慶介の意志とは関係のない生理現象だと考えている。 「永井に求愛? アプローチ? を止めてもらうにはどうしたらいいですか?」 「無理でしょう」 「無理っすか」 「ええ、関わりを断ちたいのなら物理的に距離を置くしかないです。けど、多分、運命の番を見つけたアルファはどこまでも追いかけてくるでしょうね」  そういうことなら、永井の猛プッシュはそういうモノなのだと思って諦めることにした。  というか、否定するのも、拒絶するのも、抵抗するのも、もう疲れたのである。  慶介がとれる対策は、永井がどれだけ番いたいと言ってきても嫌だと答えて、防犯の心得として二人きりにならないこと、ネックガードをきちんと付けることを守ればいいだろう。と、永井の行動には無視を決め込むことにした。  永井の過度なスキンシップは基本は無視なのだが、無視しすぎると、時々、ちょっとだけ誘引フェロモンを出しながら項を鼻でスリスリしてくる事がある。  さすがに、それをされると腹の奥に甘い痺れが走って、慶介もちょっとだけ誘惑フェロモンが出てしまう。その度に『止めろ』と言おうとするんだけど、嬉しそうに匂いを嗅ぐ永井を見たら、怒りの感情が霧散してしまって怒れなくなってしまう。  一度、声が出るほどの刺激を受けた時は、さすがに酒田も永井を無理やり引き剥がしてくれた。 「誘引フェロモンを使うなって言ってるだろっ!」 「うっかり出るんだから仕方ないだろ!」  酒田が持っている追加の抑制剤を飲むように渡されて、この時から誘惑フェロモンを出してしまった時は追加の抑制剤を飲んでおくことにした。  その日も、永井がすれ違いざまに頭にキスをしてきたのでハエを払うように追い払った。その一瞬、膝から力が抜けてカクンとふらついた。  それを見ていた酒田は慶介の状態を確認した。額を撫でて発汗を確かめ、首筋に触れて熱を測り、最後に手首で脈を測った。 「発情の症状が出ているから薬を飲め」  そう言われて、慶介は動揺した。  なぜなら景明から貰った薬は、もう無かったからだ。 「・・・あ、の・・・」 「どうした? 薬、持ってきてないのか?」 「いや、その・・・」  言い淀む慶介の様子から、ただの忘れ物ではないと感じ取った酒田の顔が険しくなり、その酒田を見て慶介は平均より大きい体を縮めて怒られる心の準備をした。 「慶介、何をした」 「・・・あの、薬、もうない・・・」 「ない?! 全部、飲んだのか? 1ヶ月分?」 「だ、だって、永井が・・・」  慶介は永井が誘引してくるからだと言い訳をした。 「永井が誘引フェロモンを使っている? いつ?」 「飯の時とか、部活行く前のキスとか、さっきの頭にしてきたやつだって、しょっちゅう使ってる」 「今、さっきだって・・・?! なんで言わなかった?」 「酒田が何も言わねぇから、許容範囲なんだと思って・・・」  頭を抱える酒田。 「まず・・・、俺は永井を止めなかったのではなく、誘引フェロモンに気づいていない。今さっきだって、俺には全く分からなかった。・・・おそらく、普通には気づかないくらい極微量のフェロモンなんだろう。それから、慶介が薬を飲むということは、誘惑フェロモンも出してたんだろ? でも、俺は・・・それにも気づいたことがない」 「え・・・?」  ──あの永井の誘引フェロモンも、出てしまったあの誘惑フェロモンも気づかれていなかった?  いや、でも、永井はちゃんと気づいていた。だから、慶介は皆にバレているものだと思って、いつ『誘惑フェロモンが抑えられないならオンライン授業だけにするぞ』と言われるかと、内心ビクビクして恐れていたのに。 「・・・気づいてやれなくて、すまなかった。不安だったろ」  酒田は固く握られた慶介の手の甲を労るように撫でた。  酒田の手の温かさに、久しぶりに詰められた距離感に、懐かしさが込み上げた。  でも、慶介の嬉しさに反して酒田の顔は険しく、ぽつりと、一言こぼした。 「これが、運命の番か」  その日は部活もせず早々に帰り、今後について警護たちが話し合いを行った。  酒田から報告を聞き、慶介からも聴取を取って、景明は太い腕を組み、でかい体を丸めて唸り『運命の番のフェロモンを甘く見ていたようだ』と、反省の言葉を口にした。  景明も警護の経験上、運命の番を自称する輩の対処をこなしたことがあるが、慶介たちは明らかに別次元を行っている。  他のアルファに気づかれない程の極微量のフェロモンで誘引されては警護も止めようがないし、慶介の方も極微量とはいえ誘惑フェロモンが出てしまうと身体に発情症状が出てしまう。そうなれば抑制剤を飲むしか無いのだが、追加の抑制剤を常用するのは、副作用や身体への負担を考えれば避けたい。と、なれば原因の方を取り除くしか無い。  酒田は慶介が薬の過剰摂取をしていたことを永井に告げた。また、誘引フェロモンについて改めて使わないように頼むと、永井は『意図して使ったことはない』と反論した。  永井も慶介と同じく出てしまう(・・・・・)のだ、と。誘引フェロモンのことを申告しなかった理由については、永井も慶介と同様に、みんな気づいていて、酒田が止めないことからも容認されているのだと思っていたらしい。  そうなれば、ますますコントロール出来るものではないのだから、接触を控えるべきと提案すると、永井は威圧を漏れ出させながら、歯を食いしばり了承した。  だが、永井の威圧はコントロールしきれなかった。  常に漏れ出す威圧に根を上げたのはクラスメイトたちだ。 「運命の番を引き離すなんて、何を考えてるの?」 「もう、番になってしまえばいいのに」 「あの永井だぞ? こうなることは目に見えてただろ」 「もう、オンライン授業にすればいいじゃないか」 「本多の誘惑フェロモンなんて感じなかった」 「そうだよ。今まで通りじゃダメなのか?」  皆、永井のフェロモンで気が滅入っているから言葉が刺々しい。どれも慶介には容認しがたい。  その場は木戸が風紀委員として仕切り、風紀委員と教員でクラス替えを含めた対応の話し合いをすることで、クラスメイトにはもうしばらく我慢してもらう事になった。 *  もうすぐ6回目のヒートがあるおかげで、居心地が悪い教室ともしばらくは離れられる。  対応についてはまだ協議中だそうだ。永井の威圧がクラスを変更しただけで落ち着くのかとか、オンライン授業をオメガだけに強要するのは、学校の理念の1つ『公平な教育』に反するのではとか、そもそも、どちらかに転校を勧めるのはどうかという話まで出ているとか。  前回のようなヒートの前倒しになっては困るので、常用してしまっている追加の抑制剤と、さらに追加の抑制剤を医師に処方してもらって一時的な過剰摂取状態で学校へ通っていたし、ここ数日の永井は接触を控えるどころか、近づくこともなく、目も合わせようとしなかった。  だから、酒田ですら油断していた。 (今日も乗り切った。明日からはヒート休みだ。)  ホッと息をついた時、後ろに圧を感じて振り返ると永井がいてギョッとした。  荒い呼吸と焦点があっていない仄暗い目を見て、唐突に昔読んだ性教育の本に書いてあった『アルファはオメガの発情フェロモンを受けて発情し、ラットと呼ばれる強い興奮状態になる』という内容を思い出した。 「な、永井・・・?」 「・・・甘い、匂い。・・・俺の、オメガ・・・」 「──永井ッ! ()せッ!!」  酒田の制止も間に合わず、放たれた永井の誘引フェロモンは薬を飲んでいてもなお慶介から誘惑フェロモンを引っ張り出した。  そのフェロモンは教室中に、教室から廊下へ、廊下から他の教室にまで溢れて広がった。 ***

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