39 / 50
第39話 6回目のヒート
オメガの誘惑フェロモンの流出と、アルファのラット化暴走という緊急事態発生。
滅多にないことだが、全く経験が無いわけではないバース社会のアルファたちは訓練通りの対応を即座にとる。
各々が、常に所持している抑制剤を飲み、緊急抑制剤が近くにある者は迷わず手に取り、教員に緊急事態を通報する。補佐アルファや警護たちは対象者以外のオメガたちも避難させるか、守るように固め、煽られて発情するアルファに対応できるように備える。
だが、慶介のクラスの教室にいたアルファの半数は、慶介の濃厚な誘惑フェロモンに完全に惑わされて訓練通りの行動がとれなかった。
酒田は自分用に所持していたペン型注射器で抑制剤を打ち、慶介に覆いかぶさる永井を掴み投げ飛ばした。
運命のオメガしか見ていなかった永井の目に、酒田が敵として捉えられ闘争心が燃え上がる。永井の後ろからは緊急抑制剤を手にした他のアルファが、数人がかりで永井を捉えようとするが華麗な柔道の投げ技で床に打ち付けられてしまった。
正気を保っていた他のアルファたちは『これだから格闘技をしているアルファは厄介なんだ!』と心の内で叫ぶ。
自分なら止められるはずだと酒田が永井の抑え込みに向かおうとした時、背後に慶介とは違う気配がして一瞬伺うと、誘惑フェロモンに惑わされた別のアルファが慶介に手を伸ばす姿を捉え、思わず舌打ちをした。
(永井だけでも手に余るのに、他のアルファまでいるなんて、どうしたらいいんだ?!)
対処の順番に迷った隙を狙われて、胸ぐらを掴まれた酒田は小内刈りであっさりとこかされ、床にぶつけた背骨が痛んだ。だが『永井を行かせるわけには行かない!』と最後の意地で、掴んだ袖は離さない。
そんな酒田に教員たちという援軍がやって来た。
教員が、正気を保っているアルファらに『誘惑されたアルファを外に連れ出せ』と指示を出すと、他の教室のアルファたちもワッと入ってきて惑わされたアルファが次々と引きずり出されてゆく。
教室に残るは永井だけ。と、安堵したのも束の間、教員が慶介に緊急抑制剤を打とうする問題が発生した。
誘惑フェロモンを出しているオメガにとる対処法としては当然なのだが今は困る。酒田は慌てて割って間に入り、それを止めた。
「既に追加の薬を二重に飲んでるんです! 医師からも緊急抑制剤との併用は危険だと言われたので打たないでください!」
「でも、誘惑フェロモンを止めなければ永井のラットは止まらないぞ」
「・・・っ、保健医に、判断を委ねます」
その間、複数の教員たちに押さえつけられても振り払い慶介に向かってくる永井を、酒田は最後の壁として防いだ。
やっと来た保健医は『救急車を呼んである』といって、慶介に緊急抑制剤を打った。
救急隊員がやってきて、進級式以来の大人数で永井を抑え込んだあと、救急隊員は永井にアルファ用の緊急抑制剤を打ち昏倒させ、永井は学校の保健室へ、慶介は救急車で病院へ運ばれた。
**
病院に運ばれた慶介はやはり腹痛を起こした。
前回、学校のシェルターでヒート中に腹痛が出たという情報は伝えられていたが、最初の2時間は過剰摂取状態の薬の効果が切れるまでは鈍痛に苦しみ、薬が切れ始めると悶絶し呻いた。
やっと鎮痛剤を点滴されたときは看護師が天使に見えた心地だった。
病院で過ごすヒートは、鎮痛剤で腹痛を和らげ、ヒートの症状を抑制剤と鎮静剤でおさえ、更に睡眠薬を服用して、眠っているかぼんやりしている状態という5日間だった。
腹痛もヒートも収まり、明日は家に帰れると思っていたら『お話があります』と病院側から言われて、信隆と景明が同席のもと聞かされたのは『運命の番』についての話だった。
『運命の番』については様々な分野で研究されているが、医学の分野である病院が担当するのは、運命の番たちが番えなかった場合のアルファとオメガの生死だ。
一般的に、番の関係になった者が死に別れるとその後はたいていが辛いものになる。
2割が何らかの形で死に至り、4割が心理的な要因による身体的、精神的な病を抱える。
運命の番は出会ってしまっただけで、番になったのと同じように引き離せば同じ不幸が起こる。
医学の『運命の番研究』の1つの答えが、運命の番を自称する2人は番わせる方が良いという統計的結果論だ。
運命を自称するアルファとオメガは番えなかった場合、高い確率で体か心を病む。慶介に体に異常がないのに原因不明の腹痛が起こっているように。
今、腹痛はヒート中にしか起っていないが、この先、治まっていくのか、ヒート期間以外も腹痛が起こるようになるのかは未知数だ。
いかに未知数なのかを医師は過去、運命の番を自称したいくつかの症例で教えてくれたが結果は本当にどれもバラバラ。
運命と引き離されて衰弱死したオメガもいれば、別のアルファと番って子沢山の幸せ家庭を築いたオメガもいる。かと思えば別のアルファと番ったあとも原因不明の病に苦しみ衰弱死したオメガもいた。
アルファ側はオメガに比べれば何の変化も起こらないパターンというのが多い。しかし、アルファの不調は狂気と無気力に分けられるらしく、無気力になれば衰弱死する事もあるし、狂気に振れれば暴走し、ずいぶんと時間がたった頃、突然に自殺してしまうというパターンもそこそこあるらしい。
医者の側としては命は救いたい。
だから、運命の番を自称する人には番になるように勧めることになっている、と、医師は話を締めくくった。
続いて、製薬会社の研究員が運命の番のフェロモンについて話をした。
こちらは専門的な用語が多くてちょっと分からなかったけど、要は、運命の番たちは特殊なフェロモンを使っているというわけではなく、威圧、誘引、誘惑以外の、感情と連動する、普通では感じ取れないような極微量のフェロモンを嗅ぎ分けて感じ取り合う。それをできるのが本当の運命の番と、製薬会社の『運命の番研究』では仮定しているそうだ。
慶介が永井を叱ろうとしても怒りの感情が消えてしまうのは、永井の喜びのフェロモンを感じて許してしまったから、というのがそれにあたると説明された。
この極微量なフェロモンを感じ取り合えるのは、運命の番であるお互いだけなので周りに被害を振りまくことは無い。永井の誘引フェロモンに引き寄せられる他のオメガは出ないし、慶介の誘惑フェロモンに惑わされるアルファも出ない。と研究員は断言した。
周りに迷惑をかけていないことには一安心ではあるが、永井のフェロモンに影響されたくない慶介は何か方法が無いかと尋ねた。
医師と研究者は、体や脳が反応すること自体を止めたいのならば追加の抑制剤以上のものを常用するしかない。しかもそれは、命に関わるレベルの薬過剰摂取状態を続けることを意味している。と言った。
「患者が望むのなら薬の処方は可能です。ただし、薬は将来的に脳に障害を負う可能性が高いということを理解しておいてください」
病室に戻り、医師から渡された過剰摂取の患者の症例が印刷紙されたの束を捲る勇気が出ないまま、沈黙の時間が過ぎる。
慶介の気持ちはほとんど固まっている。他の選択肢を想像することも無かった。でも、それを口にして断言するのは引き返せない楔を打つようで少し怖い。
(俺が決めたことなら、本当に『何でも良い』って言ってくれるか?)
話を聞いて欲しい。
言いたい事と思ってる事を全部吐き出してスッキリしてから、いつもの口角だけ上げた顔で大丈夫だ、って言う顔が見たい。
けれど、知られたくないとも思う。
優しいの代名詞のような酒田が、こんな重い事情を知ってしまったら、もう、困った時に下がる眉が戻らなくなるんじゃないかと心配になってしまうし、そういう顔が見たいわけじゃない。
酒田には、いつもの顔でいて欲しい。
「安全で快適な環境と生活を保証する。この約束はもう守れなくなったね。謝罪するよ。すまない」
信隆が沈黙を破って謝罪を口にした。
初めて聞いたときはどうでもいいと思っていたな、と。
婚約者が現れたときも言っていたな、と。
もうあれから半年も過ぎたのか、と。
時間の流れの速さを感じて、その間にあった怒涛の出来事が一気に頭の中を駆け抜けていった。
(この先、ずっと変わらない気がする)
慶介の中で決まっていた気持ちが更に揺るがぬ芯になり、これからをどうすごしたいか具体的なイメージが組み上がっていく。
そのためには協力者が必要になる。信隆が古い約束を守ってくれているのならばこの方法が取れるかもしれない、と口を開く。
「あの、もう一つの、望み通りにってやつは有効?」
「オメガとしての安全が確保出来るならね」
慶介は乾く口の中、少ないツバを2回飲み込み、想いを言葉にする。
「──俺、薬を飲む」
二人の大人が、態度には出ていないけど落胆したのがわかった。
「それから、さっきの、先生と製薬会社の人たちの話を、・・・他の、皆には言わないで欲しい」
「駄目だ。薬を選ぶくらいなら、もう学校に行く必要はない。オンライン授業にしなさい」
「高校の間だけ・・・大学は行かないから」
「駄目だ」
全然、納得していない信隆。
「でも、学校には行きたい」
「薬は止めなさい」
「体が反応するのは嫌だから、薬は飲みたい」
「飲むくらいなら行くな」
「・・・オンラインは嫌だ・・・」
「どうしても学校に行きたいなら、転校しろ。ヤツが追い出された東京校に転校してしまえば、薬を飲む必要もなくなるだろう」
『それは良いかも?』と、思った瞬間、腹がキリッと痛んだ。驚きと同時に『転校も駄目?!』と思わず、体に問いかけた。まるでそれぞれが別々の意志を持っているかのように、心と体が乖離している。
「慶介、痛むか?」
景明が側に寄ってきて、膝をついた。
慶介は反射的に首を小さく横に振った。
「正直に言え。今、痛かったんやろ? 転校の話して、腹、痛くなったんやろう」
景明の目が慶介の嘘を射抜く。射抜くと言えば矢だが、景明の圧はでっかい丸太のように強すぎて鋭いというより重い。
押しつぶされて、本音がグエっと出た。
「い・・・、痛かった。でもっ、一瞬だけ。ホントちょっとやし、そんなに痛みも強くなかった。急に来たから大げさになっただけ・・・っ」
景明が振り返り信隆を見る。
短い睨み合いの後、信隆が折れて言った。
「人形にしておけばよかった」
「やったら、お前1人でも育てられたかもしれんな」
***
ともだちにシェアしよう!