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第40話 信隆

 帰ってきた慶介をいつもの『おつかれ』で出迎えた酒田に『ただいま』と返したら、一瞬後に眉が下がってしまった。 (なんで気づくかなぁ。いつもの『普通の顔』できてると思ったんだけどな。)  警護の定例会議が開かれ、景明が説明する。  慶介の次のヒートは病院での経過観察だ。ヒートの準備ではなく入院準備を頼む。必要なもの等については入院の手続きの冊子を参考にしてくれ。  また、薬の管理を慶介本人がすることになった。確認の声掛けを頼む。  永井の担当医から、永井のラットは中途半端な接触の断ち方をしたためであり、物理的に距離をおき完全に接触を断つか、定期的に接触をとってラット化の発現をさせない方が良いだろう、とのことだ。  2人のフェロモンは極微量なため周囲に悪影響を及ぼすことはないので、接近禁止は解除する。  報告兼決定事項の連絡に水瀬が質問した。 「慶介くんの担当医は、腹痛について、なんと?」 「体に異常はない、心理的なものから来る腹痛だ。次のヒートでも腹痛が起こるようなら、今後もヒートの度に入院することになる」 「了解です」  景明は慶介が望んだ『医者からの話を秘密にする』を約束してくれた。  薬も基本の抑制剤を1番強いものに置き換えた。よほどのことがない限り、追加で抑制剤を飲むことはない。なので、1日1回服用の薬を飲み忘れるとか、薬のシートを酒田に見られてしまうとか、慶介が迂闊な失敗をしなければバレないはずだ。と、景明が言った。 「慶介・・・、大丈夫か?」  会議が解散して即、心配顔の酒田が尋ねる。『入院はどうだった? 腹痛は本当になくなったのか? 薬の自己管理とか急にどうしたんだ?』と、慶介がそれらに『大丈夫だって』と返すごとに酒田の顔が暗く沈んだ。 「なんかあったら本多さんに言うんだぞ」 「おぅ。酒田の事、頼りにしてっから」 「あぁ、頼られた分は応えるさ」 *  慶介が登校する日だと知っているはずの永井は下駄箱で待っておらず、教室で慶介たちがカバンを下ろすのを対角線上からソワソワしながら待っていた。  誘引フェロモン暴走を起こした永井は、あの翌日、メモ帳片手に謝罪行脚をして、一人一人に丁寧に謝り頭を下げていたそうだ。 「・・・慶介。俺、あの日、昼以降の記憶がないんだ。慶介がヒートになったのも、誘惑フェロモン流出させたのも、俺が誘引したからだって聞いた。慶介は薬を飲んでまで対策してたのに、俺のせいで、ごめん・・・。でもっ、俺も薬は飲んでたんだ! ・・・けど、駄目だった・・・。俺が引き金引いちまった。ごめんな、ラット化、怖かっただろ? ホント、ゴメン。・・・それで、その、・・・医者から・・・適度な接触を持ったほうがラット化はしないって、言われて・・・もし、慶介が、俺のこと怖くないって言ってくれるなら、今までどお・・・──いや、近くにいるだけで我慢するから、いさせてくれねぇかな・・・」  永井のラット化を慶介はほとんど覚えていない。誘引フェロモンに引っ張られたあとすぐに正気を失ってしまったので何も知らないのだ。覚えているのは背後に立ち、仄暗い目をしていた姿だけだ。  永井はラット化したことを謝るが、慶介はフェロモンによって記憶がなくなる事が起こることの方が恐ろしくなった。  酒田を見ると珍しく嫌な感じを出している。そして『皆に謝ってたときよりも気弱になってる』と言って、さらに、いい気味だ。と言わんばかりの顔で、 「慶介が『無理』って言ったら再起不能になるかも。言ってみてくれ」  それに永井はでかい体をビクッと震わせ、縋るような目で見てきた。  酒田に、イジメてやるな。と言えば、本多家で話し合った今後の対応について伝えた。  接触禁止の解除を聞いた時の永井がまた誘引フェロモンを僅かに出したのがわかった。でも、薬を飲んだお陰で慶介の体が反応することはない。  これ以上の追加の抑制剤は慶介も怖かったのでホッと旨を抑えて息をついた。  その日は終始、永井は捨て犬みたいな顔しながら慶介の周りをウロウロとご機嫌伺いをしていた。  その報告を聞いた景明が『あの永井がか、見てみたかったな』と笑うと『動画ありますよ』と酒田は板倉がこっそりと撮ったらしい動画を見せていた。 *  次の日、先に出勤したはずの信隆(・・)が学校のロータリーで待っていた。  何の用だろうかと酒田と顔を見合わせて問うてみると『ちょっと苦情をね』と言った。  信隆は東京校出身なので大阪校は知らないはずだろうと、酒田が『教員室は向こうですが?』と案内を申し出ると、信隆は『教室が見たい』と言う。  相変わらず、説明の少ない勝手な人だ。  教室が見えた所で、永井がひょこりと顔を出した。でも、駆け寄ってきたりはしない。下駄箱で待つのは止めろっと言ったから教室で『待て』をしている。  慶介が言う事を聞いている永井に『よしよし』と思った瞬間、隣からピリと妙な威圧を感じた。 「あれが永井だな」  慶介や酒田の『そうです』を待たず、やや大股で進む信隆が永井の前に立つと、ニコリと微笑み、直後、強烈な威圧を放った。  信隆の威圧は陰湿な恐怖を想像させる怖さだ。『ナイフで刺して殺す』という水瀬の殺意を含む威圧とは違って『両目をえぐってから死なない程度に痛めつける』みたいな悪意の威圧なので、信隆の威圧を受けた人は基本的にドン引きして、遠ざかるか、媚びるようになる。と景明が言っていたが・・・。  信隆はたった今、ここ、自分よりも圧倒的に年下の未成年が集まる学校という場で、その本気の威圧を手加減なしに放った。  全く意味も状況も理解できない混乱状態の永井を、信隆は威圧をぶつけながら締め上げる。  襟じゃなくて、首を。  信隆は慶介よりも小さい。本多の家では重岡よりはマシという程度の体だというのに、人間の火事場の馬鹿力とでも言うのだろうか。首を締められた永井がもがいても、その手はビクともしない。 「僕は運命の番というものがこの世で最も嫌いなんだよ。慶介を、僕の息子を、運命を語るお前にだけは、絶対にやらん」  皆が威圧に震え、目の前の状況に恐怖する中、奮起した酒田が後ろから両手を剥がそうと開くように引っ張った。 「信隆さんッ、止めてください! 学校ですよ!」  2人の力でやっと手を外されてしまった信隆は、永井の腹を蹴り飛ばし、次は、酒田の首を掴み跪かせた。 「お前がカスアルファだから入院する羽目になったんだろう。何のための警護だ、ゴミクズが。慶介が項を噛まれるようなことになってみろ。・・・殺す。あのアルファではなく、慶介を殺す。覚えておけ」  そして、躊躇なく顔面を殴りつけ、頬を押さえてうずくまった酒田の頭をかかとで蹴り上げた。  大人が子どもに、本当の暴力を振るう姿に、誰もが言葉を失い、事が終わることだけを待った。  いくらか怒りを発散させた信隆は乱れた髪を手ぐしで直すと、慶介に向かって涼しい顔をしながら言った。 「慶介、これは犬の躾だ」  多分、信隆はその涼しい顔をしたまま、ロータリーに止めた車に乗って、何食わぬ顔で仕事に向かうのだろう。  ・・・腑が冷える。  口から赤い涎を垂らす酒田がハンカチを取り出して廊下を拭き、口を腕で隠しながら、硬直したままの慶介のそばに来て優しく二の腕を擦った。 「大丈夫か? ちょっと、保健室行ってくるから、教室で待っててくれ。な?」 「さ、さか、た。・・・あ、あの、」  慶介は言葉がでなかった。かけるべき言葉はたくさん候補が浮かぶのに、言葉が喉で支えて上手く音になって口からでてくれない。  酒田はぐいっと腕で口を拭って、いつもの口角をちょっと上げた顔で『大丈夫だ』と言った。  確かに、安心した。体の硬直は消え、教室で待っててくれ。という言葉も理解できたし、行動にも移せた。  でも、その顔は、こんな時に見たいものじゃなかった。  教室は誰もが口数少なく、声をひそめ、にわかにざわついている。  (ヤバすぎ)  (あの人だれ)  (殺そうとしてた)  (躾って、やり過ぎでしょ)  遠巻きにされた慶介に近づいてきたのは木戸だった。 「まさか、ガソリン男が父親だったなんて」 「ガソリン・・・男?」 「知らないのか? 君の父親、本多信隆は元婚約者の結婚式にガソリンを送り付けて、キャンドルサービス中の2人に『サプライズプレゼントにもぜひ』と言った事で伝説になってるんだよ」 「ぇぇ・・・」 「まあ、元婚約者を結婚式に招待した女にも批判があったが、過激な方が語り継がれるからね」  もう、これ以上ドン引き話はいらないんだけど。 「だから見合いの時、本多本家の家紋をつけてたんだな。今回の一件で、君があのガソリン男の息子だと知れ渡るだろう。お見合いパーティで君に声をかけるような人も現れないだろうし、もう、永井にしておきなよ」  首絞めを受けた永井はへこたれずに慶介の周りに控えるように付いてまわり、酒田はいつもよりさらに半歩下がって、まるで警護が2人になったような1日だった。  酒田の顔をみた重岡さんはワタワタするし、水瀬は何かの書類を出してきて酒田にサインさせた。当の本人である信隆は謝らなかったし、景明が『すまんな、酒田』とは言ったが、第一声は・・・ 「はっはっは、弟が学校でやっちまったか! まぁ、あれが信隆の悪評たる所以だ。──苛烈だろ?」 (あれを笑えるのは兄のお前だけだと思う・・・)  あれに翻弄されてた本多家の皆さんにちょっとだけ同情する。 ***

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