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第6話

 あれから数日が経った。  晴樹の態度は今までと変わらず、更衣室での出来事は、実は夢だったのではないかと思い始めていた。 「なぁ、これ」 「ぎゃっ!」  サイドプランク中、突然のことに体勢を崩す。柊斗は子猫を持ち上げるように、僕の首根っこを掴んでいた。 「なんだよっ」 「怪我してんじゃん」 「あ、えっと……」 「噛まれたΩって感じ」  鋭い指摘に、項をさすりながら苦笑いを返す。  どうやら晴樹との事は、夢ではないらしい。となると、僕と晴樹の関係はどういう状況なのだろうか。はっきりと告白されたわけではなかったと思うが、自信はない。  確認する勇気もない。それに、こうやって何日もぐだぐだ悩んでいるせいで、僕は大好きなバレーボールに集中できていない。  とても深刻な状況だった。 「ってか早く立てよ、行くぞ」  柊斗の声が、僕を現実に引き戻した。  水筒とタオルが入った黒のメッシュバッグを肩にかけて、先輩たちのスパイク練習を横目に移動する。ふと目が合った晴樹が、微笑みながら頷いた。僕は内心動揺しつつ笑みを返し、体育館を後にした。  1年は、体力強化週間ということで、先輩たちとは別のスケジュールで動いている。今日は筋トレメニューを終えた人から順に、河川敷に移動して10キロマラソン、体育館に戻ったら基礎練習だ。 「なぁ、香水つけてんの?」  下駄箱でしゃがんだ時、隣にいた柊斗がそう言った。 「つけてないよ」 「じゃあ制汗剤か、柔軟剤か?」  Tシャツの首元を伸ばして自分でも嗅いでみるが、よく分からない。 「そういうのは使ってないし、むしろさっきの筋トレで汗臭いかも」 「んー、なんか甘い匂いがすんだよなぁ」  突然、柊斗が僕の首元に顔を埋めた。鼻先が首筋に触れ、晴樹から受けた甘い刺激を思い出してしまう。  恥ずかしさのあまり、慌てて柊斗の胸を押し離した。 「く、くすぐったいからやめろよっ」 「やっぱ犯人おまえだわ、甘い」  柊斗が首を傾げる。 「なぁ、こいつ甘い匂いするよな?」  近くにいた部員の荒木に話題を振る。荒木はまさか柊斗から声がかかるとは思っていなかったらしく、肩をビクンと震わせた。 「え、あっ」  柊斗に促され、クンクンと鼻を動かす。 「ごめん、分からないかも」 「ほらね!」  荒木の言葉に乗っかる。荒木はもう一度ごめんと言って走り去っていった。 「いや、絶対おまえ何かつけてんだろ」 「つけてないってば」  柊斗は納得がいかない様子だ。 「結構好きな匂いだからむかつくんだけど」 「知らないよ」 「なんか癒されるっつーか……」  柊斗が独り言のように呟く。僕は気になって、腕や髪の匂いも確認してみたが、やはり自分では分からなかった。  柊斗とは、何だかんだ上手くやっている。全てのβを嫌わず一部解禁してもいいじゃないかと言ってみたら、本当に解禁された感じだ。  とはいえ僕以外のβと話すところはまだかなりのレア度だけれど。  だんだんと向こうからも絡んでくるようになっていて、練習もやりやすくなってきていた。 *** 「似合ってる」  晴樹に褒められて、照れ笑いを浮かべる。  そして、自身を抱きしめるように両腕をさすり、喜びを噛み締めた。  以前サキさんが言っていた通り、1年の部員はどんどん減り、今は5人だけ。チーム着はある程度人数が落ち着いてから販売するということで、入学から3週間が経ち、やっと袖を通すことが出来たのだった。 「晴樹とおそろい!」 「そうだな」  クスクスと笑う晴樹を横目に、柊斗がゴミを見るような目で通り過ぎる。 「みんなお揃いだよ、バカ」  耳元でそう吐き捨てることも忘れない。柊斗は相変わらず口が悪い。 「柊斗はβ嫌いなのに、凌にはちょっかいかけるよな」 「パス練でペアだし、同じクラスだし……」 「あいつはαだから気をつけろよ」  晴樹が僕の頭に手を乗せて、心配そうに覗き込む。 「大丈夫、あいつ練習は真面目だし、上手くやってるよ」 「そうじゃなくて、凌は自分がΩだってこと、忘れるな」 「分かってるよ」  こんな感じで、晴樹は定期的に釘を指してくる。心配なのは分かるけれど、耳にタコだ。 「おっ、凌くんチーム着だ」 「サキさん!」 「体育館が浅葱色一色で、なんかいいね♪」 「これで遠征とか、早く行きたいです」  嬉しくてぴょんぴょんと飛び跳ねると、サキさんも一緒になって飛び跳ねた。  サキさんが手に持っているプリントがバサバサと音をたてる。 「サキ、それは?」 「あぁそうそう、顧問から預かった」  ハイと手渡されたプリントを晴樹が確認する。僕は横から覗き込んだ。 「対戦表?」 「そ、次の試合の」 「おぉ!」  とうとう試合が始まる!  晴樹が集合を呼びかけると、すぐに部員が集まった。1枚ずつ配られたそれを、ワクワクしながら眺める。そして、キャプテンの晴樹を囲み、耳を傾けた。  晴樹の話によれば、5月末に行われるシード権大会というのは、JVCの地区予選のシードを決める試合らしい。全国大会の入り口となる試合だけれど、シードを決めるだけだから、負けても全国への道は断たれない。 「負けても大丈夫だから、気楽に色々試していこう」 「でも、シードとれた方が良いでしょ?」  サキさんの声に、晴樹は小さく頷く。 「もちろんシードになれればJVCで強豪とブロックが分かれるし、狙っていく」  周りを盗み見る。負けてもいいなんて思っている顔は1つも無かった。 「シードでも何でも、結局最終的には強豪を倒さなきゃその先へは進めないんだ」 「だから勝つための試合じゃなくて、俺たちをレベルアップさせる試合にしようってことだね♪」 「サキの言う通りだ、楽しもう!」  みんなで拳を突き上げた。 ***  前の世界と今の世界はかなり似ているけれど、微妙に違う部分も多々ある。だいたいは誤差みたいなもので、普段はあまり気にならない。  前世で高校といえば春の高校バレーだった。通称、春高。僕は春高に強い憧れを持っていたため、春高が無いと知った時は少なからずショックだった。だが、代わりにJVCがあった。ジャパンバレーボールカップの頭文字をとってJVC。開催時期が微妙に違うだけで、中身は春高だ。  ちなみに、総体や国体にあたる試合は無さそうだ。その分、派手な招待試合がちらほら開催されていて、選手が1年間にこなす試合数自体はほぼ一緒だと思われる。  全国大会が始まる……ワクワクしすぎて、悩みは一気に吹き飛んだ。

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