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第13話
何というか、それは意外と呆気ないものだった。憧れていたわけでもないし、興味があったわけでもないが、もっと特別な事だと思っていたので拍子抜けだった。
番になれば発情期がぐんと楽になる。バレーボールをしていく上で、これは大きなメリットだ。
正直、記憶は曖昧だ。いつ噛まれたのか……発情期とは恐ろしいもので、αなら誰彼構わず求めてしまう。道ですれ違っただけの知らないおじさんや、ニュースで見るような悪質なαに噛まれていたかもしれないと思うとぞっとする。
そう考えると、相手が晴樹で良かった。
***
結局僕は、発情期で1週間部屋に籠もった。それはもう乱れた生活で、食も運動も疎かになった。きっと僕の筋肉は減ってしまっただろう。もっとも、普段使わない筋肉は使ったらしく、変なところは痛いが……。
1週間休学、寮も移り、項には噛み跡がある。分かる人には分かるだろう。っというか、大抵の人は察するに違いない。
久しぶりの登校は、少しだけ足が重かった。
「おはよう」
恐る恐る教室に入る。
席へ着くと、女子達に囲まれた。休む前の僕なら、とうとうモテ期が来たのかとワクワクしたに違いないが、今の状況では構えてしまう。
僕は無言で女子達を見上げた。
「立石先輩の番になったって、本当?」
「ってかΩだったんだね」
「小さい頃からの約束だったんでしょ?ロマンチックよね」
目をキラキラさせている。どうやら僕と晴樹のことが色々と噂されているらしい。
噂話の主なストーリーはこうだ。僕と晴樹は小さな頃から将来を約束した仲だったが、αとβということで晴樹の両親からは猛反対されていた。駆け落ち寸前のところで実は僕がβというのは誤診で、本当はΩであることが分かり、めでたく結ばれ番となった……。
どこで何がどうしてそうなったのか、とんでもないフィクションが浸透している。
とはいえ番になったことは事実だし、発情期の勢いで〜なんてわざわざ訂正するのも晴樹に悪い気がする。
僕は曖昧な返事をしつつ、聞き流した。
「邪魔」
と、柊斗の声がした。女子達が散る。登校してきた柊斗は、相変わらずの様子で席に着いた。
机の横に鞄をかけるしぐさ、髪をかきながら眩しそうにカーテンを閉めるしぐさ、そういう何気ないしぐさにどきっとしてしまうのは、あの日以来初めて顔を合わせるからだろうか。
己の醜態を思い出し、顔から火がでた。
「お、おはよ……」
なるべく普通に声をかける。
「おはよ」
柊斗もいつも通りだ。
僕はほっと胸を撫でおろした。
***
1限は体育、陸上だった。
1週間引き籠もっていた結果、身体がなまっていたらしい。あ、と思った時には遅く、足がもつれて転んでしまった。
「保健室に行ってきなさい」
先生にそう言われて、僕はゆっくりと立ち上がった。
膝から血が出ている。そこまで大きな怪我ではないと思うが、痛みでその場所からすぐに移動することが出来なかった。
「誰か肩貸してやれ」
先生の声に反応したのは柊斗だった。ヒョコヒョコと歩き始めていた僕を軽々と抱き上げる。
「この方が早いんで、連れていきます」
「おぉ黒瀬、すまんがよろしくな」
柊斗は頷くと、歩きだした。
お姫さま抱っこはこれで2度目だ。前回は意識するどころではなかったが、今回は違う。柊斗の顔が近すぎてドキドキしてしまった。密着した身体から感じる筋肉、頬にあたる髪、意識せずにはいられない。
「柊斗……」
柊斗は無言で僕を運んだ。
保健室は無人だった。柊斗は勝手に棚を漁っている。そんな姿を盗み見しつつ、僕は傷口を洗った。
「お、あった」
手に持っていたのは湿潤療法のパッドで、それを使った方が痛みも少なく怪我の治りも早いらしい。僕が傷口を洗い終わると、柊斗がそれをペタッと貼って、あっという間に治療は終了した。
すぐに授業へ戻ることも可能だったが、僕は動けなかった。
「痛むのか?」
「……傷は平気」
「なら、戻るぞ」
「待って」
先に行こうとする柊斗の体操服の裾を掴む。僕は勇気を出して口を開いた。
「発情期で迷惑かけちゃってごめん」
「気にすんな」
「でも――」
「その話はもうしなくていい」
話を遮られた。
確かにこの件は、話せば話すほどただの言い訳になってしまう。柊斗も忘れたい話だろうし、僕は話題を変えた。
「あの、さ……報告なんだけど」
「部長と番になったことか?」
柊斗は既に知っていた。
「うん」
僕が小さく頷く。
「良かったな」
「え?」
「ずっと憧れてたんだろ?」
「あぁ、うん……それはそうなんだけど……」
目を逸らす。
晴樹のことは好きだ。番になって後悔しているかと聞かれたらそんな事はないと言えるのだが、じゃあ幸せかと聞かれたら困ってしまう。
柊斗は“良かったな”と言ってくれたが、正直、流れに身を任せているというのが現状だ。本当に良かったのだろうか?
もう過ぎた事なのだから前を向くしかないのだけれど、僕は時々不安になる。でもそれは自分でもまだよく分かっていない感情であり、それを口で説明するのは更に難しく、先が続かなかった。
柊斗はしばらく僕を見下ろしていたが、何を思ったのか再び棚を漁り、僕の後ろに立った。振り返ろうとする僕の頭を手で押さえる。
「なに?」
「じっとしてろ」
カサカサと短い音がしたかと思うと、項に何かを貼り付けた。
手で触って確認をする。絆創膏だ。
「痛々しいんだよ」
「あ、ありがと……」
柊斗は僕に背を向けた。保健室の扉に向かって歩いていく。後ろ姿だから、どんな顔をしているのか分からない。
僕は柊斗の背中を見つめながら、項の絆創膏を再びそっと撫でた。
***
「どうして隠すんだ?」
晴樹が絆創膏のフチを指先でなぞる。
「痛そうって色々な人に言われちゃって……」
柊斗から言われただけなのに、なぜか小さな嘘をついた。
「痛い?」
「ううん、痛くないから大丈夫」
良かった、と言って微笑む晴樹。
僕は補食のおにぎりにかぶりついた。
練習の休憩時間に差し入れられるおにぎりは、マネージャーの山川先輩が作っている。部員12名分を毎回、味も工夫して握ってくれる先輩には感謝しかない。
「じゃことかつお節か、いいね」
晴樹はおにぎりを半分に割り、片方ずつ上品に食べている。
「晴樹ってサッパリした具が好きだよね」
「凌はツナマヨが好きだったよな?」
「うん、こってり派」
好き嫌いはないけれど、出てきてアタリだなって思うのはツナマヨや唐揚げのような具材だ。洋食が好きで、ハンバーグやカレー、エビフライ等が大好物だ。
逆に、晴樹はうどんや魚、いわゆる和食ばかりを好んで食べている。素材の味、だしが効いている、そういう料理だ。それでも186センチあるのだからαって凄い。晴樹が子供の頃にもっとお肉を食べていたら、2メートルも夢じゃなかったかもしれない。と、僕は思っている。
「そうそう、今日の帰りにユニフォームが配られるぞ」
食べるのはあっという間だ。晴樹はそう言って、ゴミを綺麗にたたみ始めた。
「明日の試合、楽しみだな」
「うん!」
僕も食べ終わり、ゴミをくしゃくしゃと丸める。晴樹のゴミを受け取ると、立ち上がった。
体育館へ戻るため、階段を登る。
「あ! 明日だけど、俺と凌の両親がこっちに来るから」
「え?」
驚き、振り返る。
「試合の応援に来るって言うから、ついでに夜食事でもしようかって話になった」
晴樹はさらっと言うが、このタイミングでそれは、なんだか結婚前の顔合わせのような重い席に感じてしまう。
「ごめん、勝手に決めて悪かったかな?」
晴樹が眉尻を下げる。
晴樹と僕の両親はジュニア時代にそれなりに交流があった。同じ高校に進学し、初試合となればそういう話が出ても不思議ではない。
「ううん、大丈夫」
僕の考えすぎかもしれない。だから、お互いの両親を交えた席なんてまだ早いと思いつつ、文句は言えなかった。
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