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第21話

 美味しい匂いがする。  肉だ、焼肉の匂い。部屋の中でふわっと香るそれに反応して、目が覚めた。  職員室の前にいたはずなのに……晴樹と柊斗が、見慣れたテーブルで食事をしている。脳が混乱したけれど、それで飛び起きるような体力は残っていなかった。僕は、少しだけその光景を眺めて、またゆっくりと目を閉じた。 「信じて待ってあげないんですか?」  柊斗の声で再び目を覚ます。起きてはいるが、瞼は閉じたままだ。身体が重く、2人の声も少しくぐもって聞こえた。 「より確実なものにしたいじゃないか」  僕の髪を撫でるこの優しい手は、きっと晴樹のもの。 「……やっぱ監督に、何か言ったんすね」 「判断したのは監督だよ」  胸騒ぎがした。  何の話か分からない。分からないけれど、なんとなく察してしまう。僕の考えすぎなら良いが、悪い予感ほど当たるものだ。  拓さんの言葉が、こだまのように頭の中で響く。僕が今、試合に出ているのは、晴樹のおかげなのかもしれない。 *** 「おはよう」  晴樹が隣で囁く。  おはようと返事をすると、優しく微笑み僕の頭を撫でた。 「あれ、僕、パジャマだ……」 「着替えさせただけだから、ちゃんと風呂に入ってね」  そう言われて、慌ててパジャマの中を覗く。下着は昨日のままで、ほっと胸を撫で下ろした。 「もう何度も見せてくれてるのに、そこ気にするんだ?」  晴樹がクスッと笑う。 「は、恥ずかしいものは恥ずかしいからっ」  顔が熱くなるのを感じながら、僕は部屋を見回した。 「ねぇ、僕はどうやってこの部屋に帰ってきたの?」 「柊斗が運んできてくれた、後でお礼を言うんだぞ」  頷きながら時計を見る。もう8時だった。  今日は祝日なので学校は休みだが、昼からは練習だ。貴重な半日休みは、こうやってゴロゴロしているだけで過ぎ去るだろう。なぜなら疲れがとれていない。どうにも身体が重く、動くのがしんどかった。  が、少しずつ頭は冴えてきた。昨日のことを、勇気を出して尋ねる。 「……もしかして、夕飯は焼肉だった?」 「え? あぁ、焼肉弁当だったよ」  僕がじっと見つめると、責められていると解釈したのか、晴樹は申し訳なさそうな顔をした。 「ごめん、柊斗と食べちゃって、もう無いんだ……朝食と昼食は手配してあるから、そろそろ届くと思う」  同時に持ってきてくれるはず、と言いながら、晴樹は立ち上がってリビングへの扉を開いた。 「ほら、今のうちにお風呂どうぞ」  僕もゆっくりと立ち上がり、晴樹の前まで歩いた。 「ねぇ晴樹、僕は全国に行きたいし、晴樹と同じコートに立ちたい」 「知ってる、俺も同じ想いだ」  微笑んで、僕の額にキスをする。甘い空気に流されないよう、しっかりと見上げた。 「晴樹が僕のために何かをしてくれるのはありがたいけど、そういうの番だからとか言われるの嫌だし、納得できない人もいるだろうし……」  だが言葉に詰まる。晴樹は僕の頬を親指の腹で撫でた。 「俺が凌と試合に出たいって、監督にお願いしたとかいう話を気にしてるのか?」  素直に頷く。  一瞬、どうして分かったのかと驚いたが、昨夜見た光景から察するに、柊斗から聞いたのだろう。 「もしそうだとして、何がいけないんだ?」 「だって、そういうの汚いとか狡いとか言われるし……」 「言わせておけばいい、コネがあっても実力が無ければ入れてはもらえない、後ろめたい事なんて何もないじゃないか」  確かに、僕が初心者だったとしたら、どんなにコネがあってもレギュラーにはなれなかっただろう。でも、そういう事じゃなくて、引っかかるのはもっと別の話だ。 「僕はコネが無きゃレギュラーになれないと思った?」 「そんな事はないさ、ただ――」 「晴樹、言ってくれたよね? 僕は強くなるって……信じてくれていると思ってたのに」 「余計なことをしたかもしれない、それは謝るよ」  僕の両肩に手を置き、膝を曲げて目線を合わせる。そして、苦しそうに眉尻を下げた。 「でも、賄賂を贈ったわけでもないし、凌が思っているような事はしていない、今ある環境は間違いなく凌の実力で掴んだものだ」 「ごめん、なんか……なんか僕、なんでだろ……」  疲れているせいか、思考がマイナスに傾く。  この部屋への引越し、両親との食事会、学校での噂、指導者の態度、そして拓さんの言葉……今まで気にしないようにしていた事が、次々と押し寄せる。  一度気になってしまうともうダメだった。番という箱に押し込められているような、嫌な感覚さえ芽生えてしまう。晴樹は悪くないのに、少し離れたいと思ってしまった。 「ごめん、なんか疲れがとれなくて……もう少し寝るね」  ベッドに引き返す。  目を閉じると、晴樹はそっと布団を掛け直し、優しく頭を撫でてくれた。  お礼も言わずに寝たふりを続けると、僕はすぐに眠りに落ちた。 ***  午後の練習は、なんとか参加できた。  だがセルフメンテナンスの限界だろうか、パフォーマンスが落ちているのを痛感する。プロの力を借りるしかないと思った僕は、スポーツマッサージを受けることにした。  地元なら行きつけの鍼灸院があるのだが、そこへ行くとなると外泊許可が必要だ。 「昔からお世話になってる人がいるから、ついでに診てもらうか?」  たまたま今日、柊斗が親子揃ってお世話になっているという人が寮へ来るらしく、嬉しい提案を受けた。プロ選手専属のマッサージを受ける機会なんて滅多にない。  迷わずお言葉に甘えることにした。  柊斗のマッサージが終わる時間になったら部屋へ来るよう言われた僕は、それが終わった後すぐ眠れるようにと、お風呂に入ったりして時間を潰す。  そして、19時過ぎに柊斗の部屋を訪れた。 「……おまえ」  扉を開けた柊斗が、少し困ったような顔をした。 「ごめん、遅かった?」 「いや、大丈夫だけど……入れよ」  部屋に入ると、寝室から白い服を着た男性が顔を出す。 「宮田です、はじめまして」  想像していたよりも若い方で驚いた。が、目や口のまわりには浅い皺が刻まれていて、見た目よりは年齢が上なのかもしれないとも思う。 「よろしくお願いします」  お辞儀をすると、宮田さんはニコニコと笑い、寝室の方へと手招きした。  ツーブロックの髪をお団子にして……確かマンバンスタイルと呼ぶんだったか。とにかくサムライみたいでかっこいい。背は僕より少しだけ高いかな、くらいなのに大きく感じる。スポーツマッサージだけではなく、パーソナルトレーナーもしているという話だから、その鍛えられた身体の印象もあってそう感じるのかもしれない。 「じゃあ早速だけど、ここへ横になって」  手のひらを上にして示され、ベッドにあがる。 「あの、宮田さん……ちょっと」  が、うつ伏せになろうとした時、柊斗が遠慮がちに声をかけた。 「柊斗くん、どうした?」 「えっと……凌、先に薬を飲んでくれ」  宮田さんが首を傾げると、柊斗は僕にそう言った。 「え?」 「あれだよ、ほら……あの薬」  最初は分からなかったけれど、躊躇うようにそう言われて、抑制剤のことを言っているのだと理解した。 「まだあと1ヶ月は大丈夫なはずなんだけど」 「いや、来てるだろ」  柊斗が赤くなる。  確かに、初めて発情期を迎えた時も今のような体調不良があった。  周期が安定すれば、3ヶ月に1度のことだが、今の僕はまだ安定していないわけで、今来てもおかしくはない。この体調の原因は溜まった疲れのせいではないのか……なるほどそっちか!と、目から鱗が落ちた。  番が出来たとはいえ、そこはちゃんと肌身離さず薬を持ち歩いている。染みついた習慣ってやつだ。僕は鞄からごそごそとポーチを取り出し、白い楕円形の錠剤をプチっと手に取った。  柊斗から渡された水でそれを飲むと、ベッドにうつ伏せになる。 「え、そっちだけ?」  と、今度は宮田さんが呟いた。  ん? という顔で見上げると、宮田さんは頭をかきながら口を開いた。 「あ、いや……余計なお世話だね」  誤魔化すように微笑んで、僕の背中に手をあてた。  言いかけてやめられると気になってしまう。マッサージを始めようとした宮田さんに、いやいやいやと起き上がって質問をした。 「すみません、気になるんですけど!」  柊斗もリビングに引っ込むに引っ込めない感じで、扉の前に突っ立っている。 「あ、いや……違ったらごめん、さっきの薬、ビタミン剤でしょ? 肝心の薬を飲まなくて良いのかなって、気になっちゃって」 「え?」 「それじゃあ黄色いおしっこ出るだけで意味ないじゃーんって思ったらついツッコミ入れたくなっちゃってさぁ、心の中で言ったつもりが出ちゃってごめんね」  プロ失格だよね、なんて笑っている。 「……どういうことですか?」  理解が追いつかない僕の代わりに、柊斗が尋ねた。 「お客様のプライベートにあまり突っ込むのはよくないんだろうけど……柊斗くんだしいいか」  薬を見せてと言われ、残りを渡す。宮田さんは錠剤の印字を確認すると、やっぱりねと頷いた。 「察するに、凌くんはΩでしょ?」 「はい」 「私自身はβだけどね、お客様はほとんどがαだから、そのパートナーさんも担当させてもらったりして多少知識があるというか……見覚えがあるんだよね」  宮田さんの話によると、抑制剤は何種類もあるけれど、だいたいのものがビタミンをごっそり奪うとかで、ビタミン剤を一緒に処方されることが多いらしい。僕が今飲んだ錠剤はわりとメジャーなもので、見ていて気になったそうだ。 「もう1つ薬あるでしょ?」 「いえ、これだけです」 「効いてる?」 「……」  確かに全く効果はなかった。  宮田さんから返却された薬を見つめる。名前を見ても分からない……そういえば、調べようとも思わず、晴樹から渡されたものを何の疑いも抱かず飲んでいるだけだった。 「私の勘違いかもしれないし、病院側の間違いかもしれないし……何にせよ、明日病院に行った方がいいと思うよ」 「そう……ですね、ありがとうございます」  うつ伏せになると、宮田さんが僕の背中をざっと撫でた。  マッサージが始まる。  何かの間違いだとは思う。病院側のミスか、そうじゃなければ母のミスだ。僕の母はなかなかのうっかり屋さんだし……晴樹は僕の母から渡された薬を僕に届けただけだ。晴樹を疑いたくない。  なのに、疑う気持ちを止められなかった。

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