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第22話★

 宮田さんは施術を終えて帰っていった。僕もその流れで帰るべきなのは分かっている。でも、動けなかった。  柊斗は事情を察してくれているらしく、黙ったままだ。 「あの……さ、帰る前にちょっと電話してもいいかな?」  柊斗が頷く。  鞄からスマホを取り出し母にかけると、すぐに繋がった。 「もしもし、やっほー!」  相変わらず元気な母だ。軽く挨拶をして、すぐ本題に入る。 「あのさ、抑制剤の話なんだけど……薬って1種類だよね?」 「1種類? あぁそうね、抑制剤はとりあえず1種類だったわね」  母の言葉を聞き、ほっと胸を撫で下ろす。宮田さんも勘違いだったらごめんと言っていたし、この薬が僕に合わないだけなのだろう。 「身体に合わないなら薬を変えるって話だったけど、どうなの?」 「うん、合わなかった……かも」 「なら次の休みにでも帰ってくる? それとも、そっちの病院を紹介してもらった方が良いのかしら?」 「こっちの方が助かる」 「おっけ! あ、あとビタミン剤ね、ちゃんと食後に飲んだ?」  食前と食後に分かれてると面倒よねぇなんて話す母の言葉に、目の前が真っ暗になった。  電話の向こうでは、母が相変わらずのマシンガントークを繰り広げている。晴樹がどうとか、全国大会が何だとか、単語は何となく聞こえてきたけれど、理解する前に流れていった。その音はだんだん遠くなり、喉は詰まるように息苦しくなり、視界はぼやけていく。  僕は何も言わずに電話を切ると、“電波が悪いみたいだからまた今度” と、なんとかメッセージを打ち、送った。画面がよく見えなかったから、おそらく誤字だらけだ。  涙がぼたぼたと床に落ちる。  柊斗は何も言わずに僕の背中を撫でてくれた。その遠慮がちな手に、少しだけ救われる。  どれだけ泣いただろうか。目が熱いし痛い。泣きすぎたせいか頭も痛むし、吐き気すら感じている。  だが、ひとしきり泣いて少しだけ落ち着いたのか、ふと、柊斗に迷惑をかけている事に気がついた。 「……ごめん」  なんとか声を絞り出し、謝る。 「気にすんな……えっと、部長にはクラスのやつと集まる事になったとか、なんか適当に誤魔化しておくから泊まるか? それとも、送った方がいいか?」  薬のことを晴樹に聞くのが怖い。今戻っても、まともに話せるわけがないし、発情期が来ているのならば、またここから1週間どんな生活を送ることになるか―― 「泊まってもいいかな?」  今は戻れない。申し訳ないけれど、柊斗に甘えることにした。 「あぁ」  柊斗が頷く。 「ただ、フェロモンがその……」 「番がいるΩのフェロモンって、他のαに効かないんじゃなかった?」 「そのはずなんだけど、なんか反応しちまうんだよな」  柊斗が僕の髪をかき分けて、項を撫でる。ぞくりと肩が震えたのを拒絶に感じたのか、慌てて手を引っこめた。 「わ、わりぃ」 「ごめん、大丈夫だから……ってかどうかな? 実は噛みが甘いとか?」 「いや、ケロイドになってるし、部長が本当にαなら番は成立してる」  晴樹は間違いなくαだ。ってことは、成立しているはずなのに――。  2人で首を傾げた。 「とりあえず、オレはここで寝るから、おまえはベッドで寝てくれ……鍵を忘れるなよ」  柊斗がソファを指差す。 「僕がこっちでいいよ」 「いや、逆だとオレが鍵を開けておまえを襲うかもしれねぇから」 「でも……」 「いいから、気にすんな」  そう言って、僕の頭をぽんぽんと叩いた。 「ごめん、ありがとう」  支えられながら、ふらふらと歩く。  柊斗は鍵の確認をするつもりなのだろう、扉の前で止まったため、僕だけが寝室へ入った。 「えっと……」  扉を閉じかけて、躊躇う。  話がしたい。だけど柊斗が僕のフェロモンに反応してしまうのだとしたら、そんな我が儘は言えない。 「ねぇ柊斗、僕そんなにフェロモンでてる?」 「今は近づかなければ平気だけど、朝はやばいかもな……分かんねぇけど」 「なら今、少し話す程度なら大丈夫?」 「まぁ少しだけなら……」  ベッドに腰掛けると、柊斗も少し離れて座った。 「さっき母と話したよ」 「知ってる、音でっかいから聞こえてた」 「なら話が早いね……宮田さんの言う通りだったね」  僕が苦笑いを浮かべると、柊斗は小さな声で “そうだな” と言った。 「抑制剤とビタミン剤がセットで処方されてたみたいだけど、晴樹から渡されたのはビタミン剤だけで……そのビタミン剤を抑制剤だと言われて飲んでたんだけど、これってどういう事だと思う?」 「それは……」  柊斗も答えづらいだろう。だから僕は、答えを待たずに続けた。 「母がうっかり薬を落としてしまった的な間違いがあったか、晴樹が僕の発情期を抑制する気がなかったか、どっちかだよね?」 「まぁ、思いつくのは……そうだな」 「母はビタミン剤のことを知っていたし、何の説明もなしに晴樹に渡したとは考え難い……ってことはさ……は、はる…っ、きが……」  涙は全部出しきったと思っていたのに。また涙が溢れ出した。  衣擦れの音がする。  柊斗が距離を詰めて、両頬を伝う涙を手で拭ってくれた。だが、どんなに拭ってもらっても、次から次へと涙が溢れてしまう。 「悪い方にばかり考えんな」 「だって……」 「とりあえず寝ろ、んで朝イチで病院に行って、発情期をなんとかしろ」  こくこくと頷く。 「発情期を解決したら、その次は部長としっかり話せ、話さなきゃ分かんねぇだろ? な?」  柊斗の言う通りだ。何かの間違いかもしれないし、理由があるのかもしれない。話さなきゃ分からない。  たくさん泣いたら眠くなってきた。柊斗にしがみつき、ウトウトする。  そして、いつの間にか眠ってしまった。 ***  全身が熱くて、目を覚ました。  この熱の正体を、僕はもう知っている。身体の奥が疼く。自分ではどうしようもないほど強く、あっという間にその欲は膨らんだ。  身じろぎすると、シーツが擦れた僅かな刺激に身体が震え、小さな声を漏らしてしまう。  隣に柊斗はいない。  僕はベッドがら転げ落ちると、這うようにして扉へとたどり着いた。ふらふらと立ち上がり、寝室から抜け出す。リビングのカーテンは開いており、月明かりで部屋中が見渡せた。  窓辺の近くに置かれたソファに眠る柊斗は、青白い光に包まれて、すごく綺麗だった。 「んっ……」  歩み寄り、躊躇うことなく唇を重ねる。捩じ込むように舌を差し込み、上顎を擽り、歯列をなぞる。その刺激にぞくぞくと震えながら、僕は柊斗の胸元から手を滑り込ませた。 「ち、ちょっ、おい!」  柊斗が慌てた様子で僕を突き飛ばす。柊斗が起きたことが嬉しくて、僕は微笑んだ。

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