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5 デパート王の養父
「――理人、人のデスクの前で何をぼうっとしている」
「あ……。申し訳ありません」
いったいどれくらい、社長室で佇んでいたのだろう。目の前に煙草を翳されて、条件反射でライターの火を点した。
白い煙が、養父である社長の口元から吐き出される。
退屈そうに重役会の書類を眺めてから、彼は視線を俺に移した。
「地味なスーツだ。華がない」
無地の濃紺の上下。
大新百貨店お抱えのテイラーに仕立ててもらった一点ものだが、社長は気に入らないらしい。服装ひとつ俺の自由にはならない。
「着替えた方がよろしいでしょうか」
「先日誂えてやったアルマーニがいい。今日は客が来る。適当に飾って出迎えろ」
幼馴染と同じ名前の新役員が、今日付けで大新百貨店に着任する。
持病の治療で入院した前の役員に代わる、補欠取締役として。
「東亜銀行も何を考えているのか。アメリカ帰りの金融エリートなんぞ、日本の会社体質に適合できると思うか」
手許に置いていた灰皿に煙草を押し付けて、社長はオレンジ色の火を消した。
「どうせ帰国ついでの休暇代わりだろう。この大新百貨店も安く見られたものだ」
「社長、あちらから出向役員をお迎えするのは慣例です。それにメインバンクを相手にあまり軽々しいご発言は……」
「この部屋に盗聴器でもあると言うのか?」
ありえない、と彼は笑って一蹴した。
東亜銀行とは巨額の融資契約を結んでいる間柄だ。
大新百貨店が東証一部に株式上場を果たした時から、メインバンクとして取り引きをしている。
「東亜がどんな手駒を出してこようが、お前の采配ひとつだ。前の大原役員は随分お前に執心だったろう?」
「ご冗談はやめてください」
前任の出向役員は、中性的な顔をしている俺のことを、娘によく似ていると言ってかわいがった。手や腰を触られるたび、俺は不快な気持ちを覚えた。
髪も瞳も色素が薄く、実の両親が買い付けていた陶磁器のように肌が白い。
年齢を重ねても男性らしさが乏しい容姿を、俺自身はマイナスだと思っている。
「財務諸表よりお前の顔ばかり見ていた。いやらしい目だったぞ」
くくく、というどこか品のないその笑い方も、中肉の体に手早く纏ったオーダーメイドのスーツによってごまかされる。
大新百貨店代表取締役社長、新庄恒彦。
類稀な営業手腕とワンマン経営によって、巨大百貨店グループを築いたデパート王だ。
「大新の経営根幹に銀行マンを立ち入らせるな。この会社は私のものだ」
「……心得ております。社長」
そう応えてから、俺は秘書室に戻った。
予定にない慶弔事が入ることも多いから、更衣スペースには礼装なども用意してある。
ロッカーの扉を開けて着ていたスーツを脱ぐと、左手につけている黒い革バンドの腕時計が目に入った。
9時28分30秒で止まったクォーツ。
母親の形見のその時計は、16年間、一秒も動いていない。
「おはようございます。室長」
「おはよう」
仕事場の秘書室には、取締役以上の重役をサポートする秘書たちが詰めている。
綺麗にメイクをした彼女たちに混じって来客を待っていると、コンコン、とドアがノックされた。
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