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26 バトルの後
「――若僧が噛み付きおって。身の程知らずが。経営のスリム化など、単なる机上論理だ」
取締役会を終えた社長は、椅子にどかりと体を預け、不機嫌さを隠すことなくそう毒づいた。
「幾ら吠えても紅林は子供だ。青臭い理論で渡っていけると思っている、ただのエリート気取りだ」
脩一に痛いところを突かれたのが余程気に食わないらしい。
煙草の白い煙りが、社長室の鏡面ガラスを透過してきた陽光をくっきりと浮かび上がらせている。
「社長、あまりお吸いになると健康を害します」
「ふん、これから機内で二時間も禁煙だ。吸い溜めをさせろ」
社長の一日は多忙だ。進出したばかりの北海道三店の業績報告会が札幌で開かれる。
現地入りする社長に代わって、俺は東京の百貨店組合の会合に出ることになっている。
「そろそろご出立の準備をしていただかないと、飛行機のお時間が」
「分かっている」
煙草の煙りが喉に入って痛い。
咳き込んだ俺の腰元で、スマホが震えた。
「――失礼します」
デスクの側から窓辺へ寄って、スマホを耳にあてる。
連絡をくれたのは脩一だった。
「はい」
『理人。さっきはお疲れ。君が淹れたお茶はうまかったよ』
理人。彼が呼んでくれる名前は、どうしてこんなに甘く響くのだろう。
さっきまで激しいトーンで議論をしていたのに、同じ人とは思えないような優しい声だ。
「ありがとうございます。紅林役員」
『取締役会では話す暇もなかった。ワンマン社長は意固地だな』
声の響きだけで、俺の心音が跳ねた。
同じ社内で交わす電話。高鳴る胸を押さえようもない。
『なあ理人、今日の夜は空いているか』
「夜――ですか? 七時頃まで予定が入っておりますが」
『その後は?』
社長に同行しない夜は久しぶりだ。
そのことを告げる前に、脩一はひそやかに俺に言った。
『知ってるんだぞ。今夜は身軽だって』
「…え?」
『前に酒に付き合ってくれと言っていただろう。静かに飲めるところがある。一緒に来ないか』
脩一は自分と交わした約束を覚えていてくれた。
二人きりで彼と過ごすことができる。嬉しくてつい声が大きくなった。
「は、はい…っ。お供させていただきます」
『酒が入ったら敬語は使うなよ。仕事が済んだら連絡をくれ。朝まで離さないから、そのつもりでいろ』
「承知しました」
朝が来るまで脩一といられる。今夜が待ち遠しい。
浮ついた気分でいたら、突然ガラスの向こうの都心の眺望が、ぐらりと揺れた。
後ろから腰を掴まれて引き寄せられる。
煙草くさい指に顎を捕らえられ、上向かされた。
「あ……っ」
首筋を這っていく生ぬるい感触。蛇の体表のように、社長の指はざらついていた。
『どうした? 理人』
「いえ……っ。何でもな――」
「勝手は許さんぞ」
耳孔に楔を刺すように社長は囁いた。
まるで、お前に夢など見させない、と言わんばかりの声だった。
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