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28 さらに地の底へ

「お前の好きにはさせんぞ。――いつもの仕事だ。『桐生』に21時。仕度をしておけ」  神楽坂の料亭「桐生」は賄賂の受け渡し場所だ。  そこに客を招く時は、いつも社長が偽名で座敷を取る。 「……今夜だけは許してください」 「駄目だ。先方を待たせる訳にはいかん」 「いったい――どなたですか」 「都市再生機構の小野田(おのだ)理事長だ。面識があるだろう」  眩暈を覚えて天井を仰いだ。  自動車会社のレセプションパーティで会った人だ。俺のことを粘つくような目で見ていた。 「理事長のご指名だ。お前に酌をしろと言ってきた」  都市再生機構は赤坂アーバンビレッジの開発に大きな権限を持っている。  そのトップに賄賂を渡して、社長はテナントを確実に手に入れる算段をしている。  数分前に脩一と交わした議論など、全く無視して。 「さ、さっきの取締役会で、赤坂の案件は様子見することになったのでは――?」 「お前まで専務どものように紅林に懐柔されたか。大新の社運がかかっているんだぞ。打つ手は早ければ早いほどいい。――手土産に一億引き出して持って行け」  プラスチックの薄いカードを、社長は俺の前でちらつかせた。  新庄理人名義の銀行預金のカード。賄賂に使っている金は全てそこから出し入れしている。  不正が発覚した時、秘書が独断で行なったことにして社長への追及を逸らすためだ。 「いやです。……もう、無理です」 「どうした。お前は運び屋だろう」 「こんなこと、もうやめたい――」  俺はずるずるとガラスに背中を滑らせて、床に座り込んだ。立っていられなかった。  この部屋の真下に脩一の執務室がある。 彼と同じ社内で、犯罪をしてこいと命令されるのがつらい。 「立場をわきまえてものを言え。お前に逆らう権利はない」 「分かっています。だけど――!」 「育ててやった恩人に口答えする気か」  社長の指から放たれたキャッシュカードが、目の前の床に落ちた。  薄っぺらいそれ一枚よりも、俺の価値は軽い。 「どんな手を使ってでも、理事長から返事をもらって来るんだ」 「社長…っ」 「――何なら、お前の体を使っても構わんぞ」  信じられない言葉だった。  権力者に体を売れと、そうまでして取り引きを成功させろと、社長は言っている。 「う…嘘でしょう?」  社長は腕を組み、笑みを浮かべて俺を見下ろした。  もしも血が繋がっていたら、彼は俺に同じことを言っただろうか。 「理事長はいたくお前をお気に召したようだ。女のようなその顔で、跪いておしゃぶりでもしてやるといい。私の役に立ってこそ、育ててやった甲斐があるというものだ」  今まで自分が、便利な道具にされてきたことは分かっている。  そのためだけに社長は俺の養父になったのだから。  体を売れと言われて、それでも逆らえない自分が悔しくて、情けない。 「これは恩返しだ。分かっているな?」 「ひどい――」 「何とでも言え。始めから、お前を息子だと思ったことは一度もない」  社長は馬鹿にしきった目で俺を見た。  彼の革靴が、ぐ、とスラックスの股間を踏む。無慈悲な痛みが俺の下半身を苛んだ。 「お前は一生私の道具だ。せいぜい磨いて、その体をかわいがってもらえ」  溢れそうな涙を堪えて、俺は俯いた。  自由が欲しい。屈辱よりも、それはずっと強い想いだった。

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