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32 泥濘に囚われて 4

「い、や…っ」  首を振って、理事長の舌から逃れた。  思わず迸った声が、相手の欲望に火を点けた。 「抗う姿もたまらんな。そう仕込まれでもしたのか。君はけしからん。男のくせに、けしからん子だ」  目を閉じて我慢すれば全ては終わる。  相手が満足するまで、この一夜だけ耐えればいい。 (我慢できる――。耐えろ、今だけ、だから…っ)  興奮した理事長に抱き締められた。キスをされそうになって身を捩って抗う。  怖くてたまらない。俺の心と体は、ばらばらになっていた。 (馬鹿だ。俺は)  脩一に叱ってほしい。愚かなことをするなと、引き止めてほしい。  たとえ今この瞬間に、理事長の指先がベルトのバックルを外そうとしていても。 (脩一。――しゅうちゃん)  ここにはいない彼を、声のない声で呼ぶ。  細いチェーンが引き千切られ、鍵で手錠が外された。  理事長はアタッシュケースの封を開け、並んだ札束をわざとらしく手の甲で撫でた。  彼の背中側に、一組の緋色の寝具を敷いた奥の部屋が見えた。 「失礼いたします。小野田様に、ご面会のお取り次ぎでございます」  固く閉めた主室の襖の外から、理事長を呼ぶ女将の声がする。  ち、と舌打ちをして、彼は語気を荒げた。 「放っておけ!」 「それが――、すぐにお会いしたいとのことで、離れで待っておられます」 「誰だ、いったい」 「東亜銀行頭取の、葛西伸晃ですよ。お客様」 「なっ…!?」  室内の空気が凍り付いた。  予期しなかった来客の名前に、理事長は慌て、俺は息を飲んだ。  女将の声じゃない。今の声は、脩一だった。

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