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33 泥濘を断ち切る者

「失礼」  襖が開き、目の前に脩一が現れる。  取り繕う暇もなかった。  現金の詰まったアタッシュケースと、手錠と、衣服を半分脱がされている自分。  脩一の両目は室内の光景を捉えて、そして動かぬ証拠を掴んだかのように冷たく光った。 「……馬鹿なことを」 「な、何だ貴様は! 無礼な!」  顔を赤くして憤慨している理事長に、脩一は見下ろすような視線を向けた。  彼の静かな迫力は凄まじく、俺でさえも震えが止まらなかった。 「申し遅れました。東亜銀行元ニューヨーク支店長の紅林です。当行の頭取は非常にせっかちなもので、お迎えに参りました」 「たかが支店長がずかずかと上がり込むな。礼儀をわきまえんか」 「私に吠えている暇があったら、言い訳のひとつもしてみてはどうですか。行政法人の天下り官僚と企業の癒着など、陳腐過ぎて笑い話にもなりません」 「私は知らん…っ。この男が勝手に――」 「責任転嫁をするおつもりか。ご自分の振る舞いを省みてはいかがですか」 「この淫売の口を封じれば済むことだろうが!」  指を差されて血の気が引いた。  淫売。俺にぴったりの言葉だ。  脩一の鋭い眼差しが容赦なく向けられる。  ゆらりと彼の瞳の中の何かが揺れた。そこに映った、俺の醜い顔だった。 「私の秘書を侮辱しないでいただきたい」 「…え…」  気が遠くなりそうだ。脩一は汚れた俺を秘書だと言ってくれた。彼の秘書だと。 「こんな真似をして、ただで済むと思っているのか。新庄社長を呼べ!」  脩一は俺の前に立ちはだかり、理事長との間に壁を作った。  彼に守られているようで、無意識に両目が潤んだ。 「あなたの方こそ、今夜のことが明るみになれば痛い思いをされるのではないですか。叩けばいくらでも埃が出そうだ」 「貴様…、私を脅迫する気か」 「どう取っていただいても結構。しかし理事長、東亜銀行が都市再生機構の主管銀行であることをお忘れなく」  理事長の顔色が青く変わった。  ビジネス上の力関係よりも、脩一の持つ覇気が彼自身を何倍も大きく見せる。  反論する隙を与えずに、脩一は言った。 「理事長、離れで葛西頭取がお待ちです。赤坂アーバンビレッジの件で、耳寄りなお話があるそうです」 「何――」 「好条件のテナント話でも肴に、口直しをしてはいかがですか。あなたに損はひとつもない」  いや、と脩一は言葉を続けた。  俺のことを見詰めてきた彼の目は、真剣な光を帯びていた。 「とびきりの肴を私に攫われた。そのことだけが、あなたの悲劇だ」  よろめくような足取りで、理事長は部屋を出て行った。  彼をとりなしている女将の声が廊下の向こうへとだんだん離れていく。  脩一と俺、二人きりになった室内に、緊張と静寂が訪れた。

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