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36 信じたいものはひとつだけ 2
歯噛みをした脩一の鬼の形相が、次第に白くぼやけていく。
自分の両目から涙が零れていたことを、俺は冷たくなった頬で知った。
「――分からないのか。理人。お前は今、俺にまで自分を売ろうとしたんだぞ」
世界が崩壊していく音がする。
薄氷の脆さで保ってきた脩一との関係が、がらがらと崩れていく。
正しくて綺麗な脩一。彼と俺は、16年前の別れを境に全く逆の人生を歩んできた。
もう戻れない。二人でいるだけで幸せだった、幼馴染のあの頃に。
「分かっています」
「理人――」
「俺は社長と大新百貨店を守る道具です。そのためなら何でもする」
賄賂を渡す先が理事長から脩一に変わっただけだ。それが俺の仕事なのだ。
「ここに一億あります。あなたにお渡しします」
アタッシュケースを彼に差し出す。脩一は首を振った。痛ましそうに唇を噛んでいる。
「足りなければ、俺を担保にしてください」
「……理人」
「何をされてもかまいません。あなたの望むままに奉仕します」
「やめるんだ」
「――俺は汚れている。それでも役に立つのなら、あなたに差し上げます」
「理人!」
嵐が室内に吹き荒れた。木の葉のように揉まれた体が、脩一のスーツの胸へと辿り着く。
彼に抱き寄せられて、俺は呼吸を止めた。
息ができなくなった唇に、酸素よりもずっと熱い、脩一の唇が押し当てられる。
抗おうとする本能をその温度に打ち消されて、頭の中に白い火花が散った。
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