「さて、茶番は終わりだ。理人、今日中に引き継ぎを終わらせて、ここを出よう」 　未だ空気が波立っている社長室に、脩一の足音と跳ねるような声が響く。 　彼は上着の左袖をずらし、そこを覗き込んだ。 「もうこんな時間か。呆けていないで、自分のデスクを片付けてこい」 　シャツのカフスの下から現れる腕時計。黒革のバンド。ローマ数字のクォーツ。 　俺が左腕につけている、母親の形見とペアのデザイン。 「その…腕時計は……」 「アンティークだけど、ちゃんと動いているだろう？　アメリカに引っ越してすぐ、腕のいい職人が壊れていたこの時計を直してくれた」 　同じ時刻に時を止めたはずの、俺の父親の形見。 　絶え間なく秒針を動かすそれを指で撫でて、脩一は言った。 「これは昔、隣の家に住んでいた幼馴染にもらったものだ。小さくて泣き虫で、放っておけない子だった。１２歳で離ればなれになってから、ずっと箱にしまって宝物にしていた」 　とくん、と心臓が強く鳴った。こみ上げてきた涙で両目が熱くなる。 　脩一は覚えていてくれた。時計のことも。それを渡した、俺のことも。 「この時計に相応しい男になるまで、１６年もかかった」 　理人。脩一が、小さく俺を呼んだ。 　戦慄く唇をどうすることもできない。溢れそうな想いが喉につっかえて、声にならない。 「初恋の人を、奪い返しに来たよ。理人」 　眩暈を覚えるようなその言葉を、吐息の重なる距離で聞いた。 　脩一の両腕が俺を抱き締める。やっと、声が出た。 「しゅうちゃん――」 　無意識のままその名前を呼ぶ。もう止まらない。 「しゅうちゃん。しゅうちゃん」 　こうしたかった。彼の胸の中で、思い切り呼びたかった。 　眠りについていた１６年の時間が目覚める。 「俺の――しゅうちゃん」 　脩一の腕の強さが増した。 　ぎゅう、と隙間もないくらい自分を抱いて、彼は言った。 「やっと呼んだな。待ちくたびれたぞ」 「どうして…っ？　どうして黙ってたの」 「敵を欺く時はまず味方からだ」 「俺、しゅうちゃんに忘れられたんだと思って、すごく寂しかった」 「澄まして自己紹介なんかするからだ。『新庄理人』なんて、俺は知らない」 「しゅうちゃん…」 「神川理人しか、俺は知らない」 　本当の名前。失くしたはずの俺の名前を呼んで、脩一は額と額を擦り合わせる。 　その仕草は幼い頃の自分たちを思い出させた。 「最初に会った時にそう名乗ってくれれば、すぐにお前を攫って逃げて、役員なんかやってなかった」 「あの時は社長もいたから、本当の名前は言えなくて」 「知るかそんなこと。俺のことも『しゅうちゃん』と呼んでくれないしな」 「メインバンクの出向役員を職場でちゃん付けはできないよ」 「昔のお前は俺に手放しで甘えてくれていた。理人が昔の理人に戻るまで、俺も大人になったフリをしてたんだ」 「うう、い、意地っぱり…っ」 「昔からだろ。ケンカして、俺から折れたことがあったか？」 　そうだ。三つも歳上のくせに、脩一はへそを曲げたら口をきいてくれなかった。 　こうして額をくっつけて、しゅうちゃんだいすき、と言うまで許してくれなかった。 「しゅうちゃん大好き」 「――足りないよ。もっと言え」 　焦がれ続けた脩一の温もり。骨が砕けそうなくらい強い力。 　俺も精一杯の力で彼を抱き締める。 「しゅうちゃん、俺、どこへも行きたくない。しゅうちゃんと一緒にいたい」 「この時計に誓って、今度こそお前を離さない。俺たちはもう無力な子供じゃないんだ」 　願いが叶った。 　漆黒の瞳を瞬かせて、脩一は俺を見詰めた。涙でぐちゃぐちゃになった頬に、彼はキスの雨を降らせた。 「好きだよ。理人」 「俺も――しゅうちゃんが好き」 「お前のことを、一日だって忘れたことなんかなかった」 「俺も…っ、俺も――」 　脩一の髪に指を梳き入れ、同じだけのキスを繰り返す。 　音声がかき消えていく耳に、１６年間動き続けていた、彼の時計の音だけが聞こえた。