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⑧押し付けられる狂った愛、与えられない至高の愛

逃げ込む先にそこを選んでいたのは、無意識だった。  玄関を開けてくれた伊集院の顔を見て、堪えきれなかった張り詰めた糸が切れた様に、かけるの体は相手に向かって傾いでいた。抱き止めてくれる手の感触も感じる暇のないままに。  雄大は、どうやら本格的に狂ってしまったらしい。雄大の目に、もうかけるはかけるとして映っていないのだろうと思う。  休む間もなく抱かれ続ける。本当に芯から疲弊して動けないかけるを、ものみたいに犯し続ける。かけるが気を失ってもお構いなしに、相手の僅かなトイレの隙を狙って何とか逃げても、捕まえ捻じ伏せ行為を止めない。  今迄も酷いと思っていたが、ここ迄かけるの人格を無視する程に酷くはなかった。殺される、本気でそれは身に迫った事実になりそうで、発狂しそうな恐怖にかけるは身をすくめて耐えていた。  朝から何度もインターホンが鳴っていたらしいのは、微かな意識下に聞こえていた。居留守を装おっているとみなされたのか、しまいに玄関がドンドンと叩かれ、ガス警報器の定期交換日ですけどー、と声が掛けてこられた。  神の救い、だ。縋る思いで、はい、とかけるは声を振り絞って答えていた。これで雄大は対応するしかない。  不愉快そうな目でかけるを見下ろす雄大は、それでもまだ訪問者を無視しようとしていた様だが、再度ドアを叩かれ加納さーん、と呼び掛けられ、舌打ちと共に服を拾い、ゆっくりと身に付けて玄関に向かって行った。  今このチャンスを活かさなければ、俺は殺される。焦りと疲れが指先を震えさせ、一枚服を着込むのにも恐ろしい程に時間を要した。  布団に隠れた下着とジーンズから身に付ける策に思い至って本当に助かった、とかけるは思う、訪問者を室内に入れた雄大が、様子を確かめる為に一度かけるを覗き、異常がないのにふいと台所に消えたからだ。  Tシャツを引っ被り、靴下を履く余裕もないままかけるは立ち上がった。力の入らない足に喝を入れながら、どうにか身を屈めて部屋を出て、見付からずに玄関に向かい、もどかしく素足に靴を滑らせてドアを開ける。音で気付かれ追い掛けられたら、一階に出る前に追いつかれる事は確実だ。慎重に外からのドアをそうっと閉める。  ――脱出は成功。次のミッションは、目立たない裏道を使っての逃走。  ちゃんと履けていない靴が足音を立てない様に、且つ速やかに走れる様に自分に祈りながら、かけるは二階分の階段を駆け降りた。  第三のミッション、潜伏。伊集院の部屋に恐らく寝かして貰えたらしいから、無事に計画は終了、報酬は……命の保証。  ぼんやりと、そんな事を考えていた。浅い眠り。頭を撫でてくれる柔らかな手、走りながらここを思い描いた自分の判断は正しかった。  もう、目は覚めている。ただ、優しいその手をまだ感じていたかった。  かけるのつぶった瞼はきっと震えているから、かけるが寝た振りをしている事に、伊集院は気付いている。けれど声を掛ける無粋な真似はせず、静かに頭を撫でる手を止める事もしない。  唐突に、喉元に熱いものが込み上げてきた。しゃくり上げる様に喉を鳴らし、かけるは突然の事にそれを押し殺そうとした。 「かけるセンパイ……」  気遣う様な伊集院の声に、求めていた優しさに、抑えていた涙が溢れた。堰をきった様に涙は止まらず、全身を震わせてむせび泣くかけるにそっと身を近付けて、伊集院はかけるの頭を自分の胸元に抱き寄せた。縋る様に手を伸ばし、かけるも相手にしがみつく。  今かけるに一番必要なのは肉体的にも精神的にも安らぎで、押し当たる頬にとくんとくんと規則的な鼓動を感じながら、胸に染み渡る安心感にかけるはようやく力いっぱいに泣く事が出来るのだ。  目の前に置かれたホットミルクには微かな甘さがあって、初めて飲むそれにかけるは感動していた。 「……美味し」  つい落とした呟きに、かけるのすぐ横に腰を下ろした伊集院はにこっと笑う。 「寝る前に飲むと、ばっちり安眠ですよこれ」 「へえ……」 「砂糖を入れて甘くするのがポイントです。さてなぜでしょう?」  彼の好きなクイズだ。ちょっと考えて、かけるは答えた。 「飲みやすくする為?」 「ブー。女の子のウケを良くするため、でしたー」  伊集院からそんな台詞の出る驚きに、かけるはつい彼の顔を見つめてしまった。ふわっとまだ笑った顔が不意に近付いて、ちゅっとかけるにいつものキスをする。悪戯っぽく笑うのも、見慣れた顔で。 「これ飲んでキスすると、表面に甘さが残るんです。評判いいんですよ」  言われて、かけるは唇をぺろりと舐めてみた。確かに、仄かに甘い。ふーん、と感心しながら、美味しい飲み物にかけるは口を付けた。  本人が柔らかいと、選ぶ飲み物も自然に柔らかになるんだろうか。ついそんな事を考えてしまう。俯いたかけるに気付いたのか、伊集院は黙って優しくかけるの髪を撫でてくれる。  かけるが口を開く迄、待ってくれている。今からのかけるの言葉も、恐らく全てを受け止め受け入れてくれる。優しい、優しさしかない伊集院。  意を決して、かけるは顔を上げた。 「……雄大が、もう雄大じゃないんだ」  ぽつりと、話し始める。視界に映る伊集院は心配そうな顔をしていて、だけどそれに笑いを向けてやれる余裕はかけるにはなく、せめて毅然とした態度を保とうとする。 「愛してる、って何度も言うんだ。俺のものになれ、って。けどその独占欲が尋常じゃない。狂ってる。俺の気持ちなんか無視して、俺が嫌がってんのにお構いなしで、自分のやりたい様に俺を、……滅茶苦茶にするだけなんだ。愛情なんか感じられない。あんなの雄大じゃない」  痛ましい顔をして真剣に聞いてくれる伊集院を感じ、かけるはついぽつりと口にしていた。 「同じ様な事されても、お前からは優しさを感じる。嫌だけど……やだけど、好きだからって言われると納得出来る、って言うか、ああ好きだからなのかって思える。気持ちが伝わるんだ。けどあいつのは――あいつの愛してるは、一方的に俺を虐げる為の言い訳にしか聞こえない」  ゆっくりとかけるの言葉を噛み砕く様に頷いて。伊集院は、静かに口を開いた。 「大事にされてると、愛されてるって安心しますよね」  顔を向けた。彼の穏やかで柔らかな笑みはいつもと同じに優しい。肩の力を下ろさせてくれる様に。 「だけど、愛には色んな表し方がある。好き過ぎて相手を縛るしかできなかったり、優しくあつかいたいのに手に入れることに夢中になって乱暴にしかできなかったり、振り向いてくれないのがもどかしくて悔しくてやけになったり」 「……」  それは全て雄大の事を顕わしているのだろうか。雄大の行動を冷静に言葉で表されて、行動の真意に気付かされた様に、かけるは言葉の意味を噛み砕いていた。  優しく細められた伊集院の目、暖かく手の平がかけるの頬を包んで、彼は静かに続ける。 「体裁もつくろえないくらい、加納センパイはあなたを強く愛してるんでしょうね。ただあなたが欲しい、ただあなたを自分のものにしたい。真っすぐで必死なだけで、純粋にあなたへの愛だと僕は思いますよ」 「……でも」 「不器用なのは、寄り道しない一途さの現れですよ。僕なんかは器用で策略家だから、かけるセンパイに良く思われるように優しいフリができるだけなんです。僕だってあなたに本気なつもりなんですけど、どうしても僕は周囲の状況や加納センパイの反応を見たり、あなたとあなたにまつわる背景をセットで考えて行動するから。でも加納センパイはね、まわりも誰もなにも関係ない、ただ愛しいあなただけしか見えてないし考えられない人、なんです」  反論したいが言葉もない、伊集院の分析は恐ろしく的確に総てを言い当てた様に、正解な様に思えた。それに納得出来るかどうか、は今は抜きにして。  ……大切なものに触れる様に、伊集院の手は優しい。極上に優しくかけられる声も。 「加納センパイは、不安なんですよ。体だけ手に入れたあなたの、中身が伴わないから。あの人は自分の全てをさらけ出して、自分の全てをかけてあなただけを愛してる」  優しい言葉はなのに、先程からずっと雄大の代弁の様なのだ。段々にかけるはその事実に気付いてきた。説く様な台詞は続く。 「あなたにもそうあって欲しいのに、あなたがカケラも好きだと返さないから、かたくなにいやだを通すから、むきになって、屈伏させようとするしか自分の方を向かせられなくなってる。普段理性の鬼だから、自分の感情が先行する事態に直面したことがないんでしょ」 「何で、あいつの事分かった風にっ……」  とうとう、反抗する様な言葉を発して伊集院の台詞を遮っていた。ばしっと、頬の伊集院の手を払う様に押し退けて。 「あいつの肩持つ様な事、ばっかし……っ!!」  理解者、だと思っていた。自分の気持ちを分かってくれて、自分に共感してくれて、あんなひどい人忘れてしまいなさいと頭を撫でてくれるのだとどこかで思ってしまっていた。そんな優しさが伊集院の本質だと、かけるは信じていたのだ。  なのに何故、実際の彼は雄大を庇護する様な事をしか口にしないのか。  ぼろぼろと、涙がこぼれた。諫める様に柔らかな伊集院の笑顔が今は偽りに見えて、込み上げる嗚咽と共にかけるは鋭く言葉を投げた。 「お前は、俺を好きだと言ってくれたんじゃないのか?!」  癇癪を起こした子供じみてる、と自分でも分かってはいる。言って欲しい言葉を貰えなくて、地団駄を踏んでいるだけだと。  ぎっ、と睨み付けるかけるの目の強さをしっかりと受け止めて、伊集院は微笑んでいる。かけるの内面の奥深くを見透かした様に、慈悲に満ちた目。まるで諭す様に、言葉を教え込む様に、伊集院はかけるにゆっくりと囁きかけた。 「大好きです。あなたは、僕が世界で一番に大好きな人ですよ。愛してます……だからこそ、あなたには真実を見誤って欲しくないんです」  張った威勢を解かせる様に、その言葉は静かなのに強く、聞きたくないと思う心に反して、かけるは囚われた様に伊集院から目を反らせなかった。僅かに緩んだかけるの内側にいとも簡単にするりと入ってしまえる男は、強張ったかけるの背に手を回し、自分の方にそっと近付ける。  固まった様に抗えないかけるを柔らかく見下ろして、その実初めから今迄一つもかけるを甘やかす言葉を口にはしていない男は、涙の滲むかけるの目元をそっと指の腹で拭って告げた。 「あなたは、加納センパイのことが嫌いなんじゃない。あなたの気持ちや都合を無視して一方的に抱く加納センパイに戸惑って、どうして、って悩んでるだけなんです」  敢えて、言葉は返さない。睨みを込めて見返すかけるに、教え込む様に伊集院の言葉は続く。 「どんだけ自覚がないんでしょホントに。あなたはね、加納センパイのことが好きなんですよ。大好きなんです。大好きだからこそ、すれ違うことに悲しんで、苦しんで、もがいてるんです。加納センパイに優しくされたい、きちんと愛されたい、それだけなのにね」  かけるが考える間を置く様に、伊集院は言葉を止めた。  ……俺が、あいつを好き? 優しくされたい、きちんと愛されたい……?  言われても、反発しか浮かばなかった。そんな訳がない。嫌いだから、悔しくて、悲しくて、伊集院に慰めて欲しくて。 「違う、俺は……」 「強情なとこも、食べちゃいたいくらい可愛いんですけどね」  ちゅっ、と額に落とすいつものキスで、意地悪な優しさしか見せない男は笑うのだ。 「じゃああなたは、どうして今までいやなのに逃げなかったんでしょうね? インフルエンザ騒動のときに分かったはずです、加納センパイがおかしいくらい自分に入れこんでるって。ホントに嫌いなら、そのときに逃げだしてるはずですよね。どこかに加納センパイを信じたい気持ちがあるから、好きだから分かって欲しいと思う気持ちがあるから、あなたは逃げなかったんでしょう?」  ……今度は、違う、とは言えなかった。睨む強さを保てずに目を伏せたかけるをぎゅっと抱き締めて、優しいのか酷薄なのか分からない伊集院は囁いた。 「可愛い人……。あなたも、あの人も」  心底愛しむ様な口調で、伊集院は続けた。 「僕に、答えを見つけて欲しかったんでしょ? じゃなかったら、全く関係のない場所に逃げてるはずですもん。ホントに加納センパイのことがいやなら、ね。僕にだっていやなことされてるのに、下手したら今だっていやなことされてたかも知れないのに、それを推してでも僕のとこにきたのは、あなたが解決策を求めてるから。加納センパイとの今後に、的確な方向性を見いだして欲しいとあなたは願ってるから」 「何をっ……!」  がばっと伊集院の体を引き剥がして腕の中から抜け出し、かけるは震える声を挙げた。気持ちの上では、怒鳴り付けているのだが。 「勝手な事、ばっかしっ――」 「ぬかしちゃいますよ。だってどっちも大好きですから、僕は」  茶化す様なそれが同じく軽い口調だったなら、かけるは怒りに任せた拳を伊集院に叩き込んでいただろう。けれどかけるの激昂を静かに真摯な目で受け止めた伊集院は、厳かとも言えるゆっくりさで言葉を続けるのだ。 「かけるセンパイの気持ちも、加納センパイの気持ちも、僕にはどっちも分かります。どっちもお互いをしか好きじゃないのに、どっちもちゃんと相手にそれを伝えられてないだけ。僕にはそれがもどかしいんです」 「……ふざけんなよ……」  唸る様に低く、かけるは呟きを落とす。――落ちたのは言葉だけではなかった、泣く気なんかないのに勝手に涙は落ちて、かけるはただ強がる思いだけで伊集院を見返していた。 「ふざけんな。お前に何が分かる……」  ……無駄だ、と分かっていた。強がりがもう続かない事は。  涙はとうに枯れたと思っていた。もう泣くものか、と気を張っていたせいもある。  伊集院が自分よりも雄大の肩を持つのかと思って、悲しかったから。慰めを求めて来たのに、少しも嬉しい言葉で包んで貰えなくて、失望した思いが強かったから。  伊集院の告げた言葉が全部真実であるとは思えない。何より自分が本当は雄大の事を好きなのだ、だなんて一連は認める訳にはいかなかった。  だけど――他ならぬ自分の体で、かけるは知っていたのだ。正常な優しい雄大の前で、昨日自分が無防備に寝入っていた事。優しく抱かれた広い胸に安心して、少しでもその時間を長く持ちたいとそれに身を委ねていた事。  まともな雄大ならば、自分は無意識にそれにもたれていけるのだ。それに。  自分は伊集院に、雄大から逃げたい、とは一言も告げてはいないのだ。『雄大がおかしくなってしまった。雄大の言う「愛してる」から愛情を感じとれない』。そう、伊集院に語ったのだ。  ――雄大を元に戻したい。雄大から言葉どおりの愛情を感じたい。  相談されたのがもし自分ならば、真の悩みはそれだと捉えるだろう。  涙に負けて目をつぶらない様に、かけるは俯いた体に力を入れていた。すっと近付く気配、ふんわりとかけるの体はまた伊集院の腕の中に包まれて、口調だけならば矢張り究極に優しい言葉が落とされた。 「……賢い人。あなたの中で、答えはもうでてるはずですよ」  くぐもる筈の言葉は、鮮明にかけるの耳に届いてしまう。真っ直ぐに響く声。 「解決策って、意外に簡単なんですよ。加納センパイに、あなたから好きだ、って言ってあげるだけでいいんです。好きだから、優しくしてくれって」 「……」 「それだけなんです。俺の気持ちも優先してくれってつけ加えられたら、更に完璧なんですけどね」  顔を挙げないかけるに、まだ伊集院の真摯な言葉は続けられる。 「加納センパイはあなたに自分の想いが届いてないと思って必死なだけだから、あなたの気持ちが自分にあるって知ったら、安心して変わってくれますよ。信じられないくらい大事にしてくれるはず。まあ、しつこさは変わらないと……いえ、前よりひどくなるとは思いますけどね」  最後の一言に、かけるは顔を挙げた。 「……それじゃ、全然解決になってねえ……」  かけるが余程神妙に困った顔をしていたのだろう、伊集院はそれ迄の緊迫した空気を一度に壊す様に、にへらーっとそれは気を抜いて笑って、ぎゅうっと彼にしては力を込めて抱き締めてくるのだ。 「……まったく、無自覚に可愛い過ぎるんだから……。あの加納センパイがおかしくなっちゃうわけだ、ホントに。ちょっとくらいその魅力おさえないと、骨までしゃぶられちゃいますよあんた」  意外に深刻な伊集院の口調に、自分でも雄大に対して抱いている同様の懸念が現実味を帯びて、かけるはぞっとする。  もどかしく手を挙げて伊集院をどかそうとしたら、思いがけなく彼の方からするりと腕を解かれ、かけるは突然に自由にされた。見上げた伊集院の表情はとろけそうに甘く優しいものであったけれど――ああそうか、と不意にかけるは何だか分かった気がした。気付いた気がした。  真剣に見えるけど、必死じゃない。本気に思えるけど、一途じゃない。  あなたは、僕が世界で一番に大好きな人です。伊集院はそう告げた。僕は世界中であなただけが好きです、ではないのだ。  逃げて縋ってきた自分を、もう大丈夫、と家の奥に隠す事をこの男はしなかった。僕があなたを匿ってあげます、ひどい人なんですね加納先輩って、ここにいたら安心ですからね、と手放しにかけるを受け入れる事はしなかった。  傷付いて震えるかけるを慰めてはくれたけれど、気が落ち着くのを手助けはしてくれたけれど、そうやってかけるの受け入れ状況を整えてから、実に理路整然と正論をかけるに突き付けた。彼ならではの愛情で。  伊集院が好きだと言うのは、単純なかけるだけの事ではないのだ。雄大込みの、雄大が居てこそのかけるの事を、伊集院は好きなのだ。どんな考え方によるものか、それは難解過ぎて理解は出来ないけれど。  だから、かけるの欲しかった慰めは与えられなかった。僕に甘えていいですよ、なんて一時の優しさも彼はかけるに許さなかった。僕じゃなくて加納先輩を見て、と彼はずっと言外で告げていたのだ。  それが、彼の愛情なのだ。曰く、『僕はあなたが大好きです、でもあなたが好きなのは加納先輩なんです。だから、あなたには加納先輩と上手くいっててもらわないと』。  ……愛されては、いる。それこそ雄大からは感じられない程の、深く落ち着いた愛情を感じられる。かけるに向けられる一心な愛はある、のに。けれどそれは言ってしまえば見守る様な母親の愛情、それに似て。深く強いけれど、求めてもかけるの望む様には与えられる事はないのだ……。  不意に、そうして全てが繋がった気がした。見付けた結論は何だか無性にかけるを寂しくさせて、だけどそこで無いものねだりが出来る程にかけるは幼くはないので、ただ黙っているしか出来なかった。  全てを理解した上でかけるが鎮まった事が、伊集院には分かってしまうのだろうか。にこりと笑って、知ってしまえば近いのに遠いこの男は、どうしてもかけるに雄大を好きだと自覚させたいらしかった。 「ね。ゲームしましょ」 「……ゲーム?」 「僕があなたの好きなところをひとついったら、次はあなたが加納センパイの好きなところをひとついうんです。次々いい合って、先にいえなくなった方が負け」  罪のない笑みで、残酷な事を口にする。これも壮大な彼の愛情の一端だ。自身に向き合え、と。あくまでも甘えは許さない、と。  ……伊集院は勝手に決め付けてくれるけれど、俺は本当に雄大の事が「好き」なんだろうか? 『優しくされて』『ちゃんと愛されたら』雄大の事を許せる――好きだと思う、のだろうか?  伊集院がホットミルクを入れに台所に立って、かけるは一人考えている。  雄大は、親友や同僚としてなら最高の相手だ。その意味でならば大好きだ。けれど親愛以上の感情を込めて相手を見た事なんてないと自分では思っていたし、それ以上の関係なんて存在しないと思っていた。  なのに、こんな事でも起こらなければ自覚しなかった、自分の本音って事なんだろうか……。  それは究極に行き詰まった考えに思えて、かけるは抱えたクッションに顔を埋めてそこに溜め息を閉じ込めた。優しいんだか優しくないんだか最早分からない男が暖かな飲み物を手に帰ってきて、かけるは考えを中断した。  とは言っても、伊集院の示したゲーム、に、結局は今からの思考もそれだけに染められるのだろうけど、ともうかけるには分かっている。だからせめて、心の一部は甘く満たしたくて。  熱いままのホットミルクを口中に広げて行き渡らせてから食道に落とし、かけるは伊集院に向けて問いを投げかけた。 「負けた時の罰、何にすんだ?」 「なんにしましょうかね~?」  問いで返す風で、きっとこの男の事だから、何かしらの本気できつめの「罰」を課せてくる事は想像に易かった。こちらも、負けない位に相手に痛手になる何かを考えてぶつけてやりたい処だが。 「お前が、負けたら……」  ここは是非とも先手を打ちたくて、考えのまとまらない内に、かけるは口にしていた。楽し気に顔を近付けて、伊集院はそれを律義に反復する。 「僕が、負けたら?」 「……俺を」 「かけるセンパイを?」 「諦める」 「はい、却下ー。そんな、世界がひっくり返ったって起こらないことはかけの対象にはなりませーん。えっとね、僕が負けたら、鯛茶漬けいつでもどんなときでもおごります。期間制限なしで。いわゆる一生の約束で。――どうですか?」  瞬時言葉を無くして、かけるは伊集院を見つめてしまった。油断した唇にちゅっと音を立てて口付けられ、発した言葉はそれに対しての文句になってしまう。 「てめ、またっ」 「ん。だってせっかく甘いの、一回だってムダにしたくないし」  しれっと言われてしまって、もう何だか抗議の気を削がれるのはいつものパターンなのだけれど。そこはつい苦笑してしまいそうになる自分を引き締めて、かけるは毅然と告げた。 「食い物で釣られる程安かねえよ。却下。そうだな、……一週間俺に触るのなし、ってどうだ? 当然キスもなしな。しかも今から、で」 「えええーっ?!」  強気のかけるの決めつけは予想外だったのか、伊集院は愕然としている。ちょっとそれは、と掴まれた腕の手をばしっと払い退けて、かけるは非情な無表情を浮かべて言い放ってやった。 「たかだか一週間だ。立派に罰だろ。はい成立な、確定な! いいぜ、俺の罰はお前が決めろよ。早く言えよ」  さっさと仕切るかけるを瞬間恨めしそうに上目に見つめて、伊集院は考え考えの様に言葉を落とす。……恐らく、ゲームを言い渡した当初から考えなんか固めていた筈なのに。 「かけるセンパイがー、負けたらー、負けたらあ……」 「一ヶ月な。馬鹿馬鹿しい言い方に何かムカついたから、一ヶ月に伸ばす。二度は変更しねえから、抗議も受け付けねえ。懲りたらさっさと言え」 「ひど……っ!!」  そこは本当に意表を突かれた様に、伊集院はらしくない大声を出した。にんまり笑うかけるに却って頭を冷まされたのか、けれども次にはいつもの「動じない」伊集院に戻っていた。 「まあ、負けませんから別に構いませんけどね。じゃあ決めますよ? あなたが負けたら、すみやかに加納センパイのとこに帰る。そんでちゃんと話し合う。大丈夫、僕もついていきますから」  ……矢張り、そうきたか。何だか想定内の提言に、かけるは真っ直ぐに伊集院を見返す。 「お前に決めろと言ったのは俺だ。異議はない。勝負は真剣に頼むぜ」  にこっ、と伊集院は笑って――策略高い彼のスイッチが押され、発動は始まった様だった。

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