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閑話4 変わる未来(エザラ編)
「エザラでん……いえ、エザラさん」
地下牢で膝を抱えていたエザラは、聞き覚えのある声にのろのろと顏を上げた。すると、頑丈な格子の向こう側にライリーの姿があった。
ライリーの顏は痛ましげな、それでいて冷たい表情だ。もう見放している反面、同情してもいる、といったところだろうか。
「……これはライリー殿下。私を嘲笑いにでもきたのですか」
ライリーがそんな性悪男だとは思わないものの、そうされても文句は言えない立場だ。
眉をひそめるライリーから視線を外し、エザラは自嘲の笑みを浮かべた。
「さぞ、滑稽でしょう。あなたを陥れるはずが、侍従に裏切られて自分が王婿位の剥奪、そしてじきに後宮から追放。サンドフォード侯爵家からも縁を切られた。なにもかも失くす、というのは今の私のことを言うのでしょうね」
「………」
ライリーは是とも否とも言わない。けれど、無言こそが是という相槌だろう。
王婿の地位。
サンドフォード侯爵令息という身分。
そして――長らく仕え続けてくれたヒューゴ。
それらすべてをエザラは失った。天罰が下ったのだ。自らの欲のためにライリーの人生を壊してしまう、最低最悪で卑劣な手を使おうとしたから。
「バカなものです。決して得られもしないものを必死に求め続け、道を踏み外し、この手にあったはずのものまで失った。私には……誰かに愛してもらう資格など、初めからなかったのかもしれませんね」
「……そんなことはありません」
ようやく、ライリーが口を開いた。
ライリーはもう一度言う。
「そんなことはありません。誰かに愛してもらいたいと思うことが、バカなことだとも思いません。ひととして当然の感情だと思います」
「………」
そう言ってくれるのか。罠にはめようとした相手に。
思っていた以上に、ライリーという男は優しい性格のようだ。
「慰めは結構ですよ」
「慰めじゃありません。あなたがしようとしたことを許す気もない。……ですがただ一つ、あなたには伝えたいことがありまして」
エザラは不思議そうにライリーを見た。伝えたいこと、とは。
「なんでしょう」
「私は、基本的に人間関係は鏡のようなものだと思っています。相手に与えた分だけ、自分に与えたものが返ってくる。それ以上でもそれ以下でもない。……が、何事も例外はあります」
淡々と、ライリーは言の葉を紡ぐ。
エザラはぎくりとした。父のことを言われているような気がしたからだ。もしや、ヒューゴから何か話を聞いたのだろうか。
顔を上げたエザラと、ライリーの射抜くような真っ直ぐな視線がぶつかる。
「あなたに悪い影響を与える存在は、あなたから切り捨てるべきでした。あなたが間違えたことがあるとすれば、それは自分が大切にすべき存在を見誤ったことです」
「……大切にすべき存在、ですか」
「はい。あなたにはいつも傍にいたでしょう? あなたのことを誰よりも慕う人が。あなたが一番に大切にすべきだったのは、その人だったんじゃないんですか」
言われて頭に浮かぶのは――ヒューゴの顏。
『エザラ様』
――僕は、ずっとお傍にいますよ。
記憶の中にあった言葉に、エザラははっとする。
そうだ。いつもエザラの傍にいたのは、傍にいてくれたのは、ヒューゴだった。ヒューゴがいたから、あの居心地の悪い家でも生きてこられた。
ヒューゴが傍にいるのは当たり前で……当たり前すぎたから、その大切さに気付けていなかった。
そうか、と思う。ヒューゴがエザラを裏切ったんじゃない。エザラがヒューゴを切り捨てていたのだ。先に手を離したのは、エザラの方だ。
「……では、私はこれで」
ライリーは踵を返し、その足音はゆっくりと遠ざかっていく。
一方のエザラは、抱えていた膝の上に顔をうずめた。
(ごめん。ごめん、ヒューゴ)
もう取り返しのつかないことだと、分かってはいるけれど。それでも、心の中で謝罪せずにはいられない。
自分はとんでもない大バカ者だ。
それから数日後、エザラは外界に釈放された。釈放といっても、事実上の追放であるが。
地下牢にはライリーへの謝罪と感謝の意を書いた手紙を残して、エザラは身一つでゼフィリア王城を出た。
空を見上げれば、曇天だ。いつ雨が降り出してもおかしくない。まるで今のエザラの気持ちを表しているかのようだ。
(さて……これからどうするか)
資産がない以上、一般市民と同じく働いて生きていかねばならないが、一応は温室育ちのエザラだ。自分にできるとは到底思えないし、そもそもそこまでして生きたいとも思わない。
街の片隅で、野垂れ死ぬのが今の自分にはお似合いだろう。
そう考えると、不思議と足が向いた先は――かつて、ヒューゴと出会った場所だった。子供だったヒューゴがうずくまっていた辺りに、エザラも膝を抱えて座った。
(あの時のヒューゴも……今の私と同じように、孤独な気持ちだったんだろうな)
それもまだ子供だったのだから、その絶望感は推して知るべし、だ。
父ではなく、ヒューゴのことを一番に大切にしていたら。そうしたら、今もエザラの隣にはヒューゴがいてくれたことだろう。
今のエザラの隣には、当然ながらヒューゴの姿はない。そのことが、胸が締め付けられるように痛い。
――ぽつん。
空から降ってきた冷たい雨粒が、エザラの頬に当たった。とうとう、雨が降り出したようだ。
ぽつぽつとした雨は次第に激しさを増していき、豪雨となる。叩きつけるような雨に打たれながら、エザラは動かずに黙ってその場にいつづけた。
特に理由はない。強いて言えば、このまま死ねたらいいのに、と思った。
しかし、その時間は長くは続かなかった。雨粒を遮る大きな傘が、エザラの頭上にかぶさってきたからだ。
「お風邪を召されますよ」
穏やかで、優しい声音。
エザラははっとした。この温かい声の持ち主が誰かを、エザラが聞き違えることはない。
咄嗟に顔を上げようとして、……けれど、上げられなかった。合わせる顔などない。どの面を下げて、顔を突き合せろというのだ。
「エザラ様。雨宿りをいたしましょう。しばらくやみませんよ、この雨は」
「……放っておいてくれ」
まずは謝りたいし、謝るべきだろうと思う。けれど、実際に謝ったら、きっとあっさりとエザラを許すだろう、この心優しい男は。そしてエザラもその優しさに甘えてしまう。それではなんの償いにもならない。
「私は……お前を切り捨てたんだ。お前の傍にいる資格なんてない」
元通りの関係に、なんて都合のいいことはできない。
すると、仄かに苦笑する気配が伝わってきた。
「相変わらず、真面目でいらっしゃる。僕はとうの昔に亡くなっていたはずの人間です。それを救って下さったのがエザラ様なんですから、この命はエザラ様に捧げています。必要以上にご自分を責めないで下さい」
「………」
「というよりも、ご自身よりも僕のことを責めるべきでしょう。僕はあなたの信頼を裏切ったんですよ。そのせいで今このような場所にいらっしゃるのに、どうして一言も僕を責めないんですか」
「……お前の判断は正しいからだ。私が間違っていたんだ。あんな姑息なやり方でライリー殿下を排除しようだなんて。すべては私の自業自得、天罰が下っただけだ」
そう、間違っていた。父からの愛情に固執して、大事なことを見誤っていた。一番に大切にしなければならなかったのは、目の前にいる男――ヒューゴだったのに。
「これからは好きに生きるといい。今のお前ならどこでも生きていけるだろう」
「ええ、そうですね。これからは好きに生きますよ」
その言葉にほっとし、同時に一抹の寂しさも覚える。ヒューゴが現れたのは、おそらく別れの挨拶をするためなのだろうと分かったから。
我ながら厚かましい解釈をしていた。てっきり、また仕えるつもりでいるのだと思い込んでいた。そんなわけがないのに。
「そう、か。なら、いい」
エザラはようやく顔を上げた。最後くらい、顔を合わせるべきだろうと思ったのだ。
優しげな容貌のヒューゴと、目が合う。
「今までありがとう。迷惑ばかりかけてすまなかった」
「僕の方こそ、侍従として不出来でした。誤った道を進もうとするあなたを諫めることができなかった。そのことを強く後悔しています。だから」
ヒューゴは、微笑む。
「一緒にやり直しませんか。今度は主人と侍従ではなく、もっと対等な関係で」
「え……」
これからは好きに生きるのではなかったのか。
そんな戸惑いが顔に出ていたんだろう。ヒューゴは照れたように笑った。
「好きに生きますよ。あなたの傍で。僕には、あなたのいない人生なんて考えられませんから」
目の前にすっと手が差し伸べられる。エザラのそれより大きく、頼もしい手だ。
「頑張って一緒に生きましょう。エザラ様」
「ヒューゴ……」
エザラは、再び俯いた。
この手をとってもいいのだろうか。
ヒューゴの傍にいることが、今のエザラに許されるのだろうか。
「……私は」
「僕には、あなたが必要なんです。エザラ様は違いますか」
唇をきゅっと噛み締める。
そんなことは、聞かれずとも決まっている。エザラにだってヒューゴの存在が必要だ。
「ちが、わない……」
「それなら、ずっと一緒にいましょう。もう絶対に手を離しませんから」
エザラがヒューゴの手を取るよりも早く、ヒューゴがエザラの手を掴む。力強い腕でエザラをぐいっと引き上げ、立ち上がらせた。
「行きますよ。早くシャワーを浴びて着替えませんと」
「……うん」
ヒューゴに手を引かれて、エザラは隣を歩く。
もう道は踏み外さない。
今度は大切なものを見誤らない。
今この手にある温もりは、決して当たり前のものではないと気付いたから。
そうして、王都の街で暮らし始めたエザラとヒューゴ。
やがて籍を入れ、子を設け、忙しくも幸せな日常を手に入れるのは――それから五年後のことだ。
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