5 / 17

甘くて苦い、素知らぬ一日

入れたてのコーヒーを一口。マグカップをぎゅっと握りしめた美鳥君は、縋るような瞳を真っ直ぐ僕に向けてくる。 その隣では死んだ目をしてデスクに突っ伏した色が低く唸り声を上げていた。 昼休みの数学準備室。相変わらず我関せずとカップ麺を啜る数学教師を他所に、何やら今日の二人はそれぞれ様子がおかしかった。 何か言いたげにしている美鳥君の視線にも気づかず、音楽馬鹿の朴念仁は今朝からこんな調子だ。 仕方なく、僕は濃い目に作ったコーヒーを色にも手渡してやる。 「なに、仕事煮詰まってるの?」 「……やれ桜をテーマにだの卒業式に使える曲だの、毎年毎年この時期は同じような依頼ばっかり。……いい加減作り飽きた。」 どうやら徹夜で曲を捻り出していたらしい。唸るその目の下にはくっきりと隈が浮かんでいた。色にとって、今日は大事な締切の日なんだろう。 音楽室での作業を中断して眠気覚ましのコーヒーを飲みに来るまで、ここでどんな会話が繰り広げられていたのか、考える余裕はなさそうだ。 美鳥君に今日はもうほっときなさいと視線を送れば、きちんと意味が伝わったのだろう。苦笑いしつつもこくりと頷き返された。 「あ、あの、櫻井君。僕、食堂で飲み物買ってくるけど、ついでに何か買ってこようか……?」 デスクに突っ伏していた顔がほんの少し上げられ、半開きの瞳が美鳥君を見つめる。 「あー、なんか適当にサンドイッチでも。頼めるか?」 「うん。」 「あ、あと緑茶と……チョコレート。」 ピシリと空気が凍りついたことに色は気づいていないようだった。 部屋の隅でカップ麺を啜っていた木崎先生が一人むせ返る音が、凍りついた室内に響く。 「……え、」 「チョコレート……ビターなの食べたい。」 まさかこのタイミングで。 僕は噴き出したくなるのを必死にこらえた。 予想外の出来事に美鳥君は完全に固まってしまっている。 「……ん?…みどり?」 「あ、……は、はいっ!い、いい今すぐお持ちしますっ!!」 色の声に弾かれたように席を立った美鳥君はガチガチに表情を強ばらせたまま顔を真っ赤にして数学準備室を飛び出していった。 「……なんだ?」 本気で意味がわからず首を傾げる色には笑うしかない。 「チョコレート頼むなんて、よっぽどお疲れなんだねぇ。」 「あ?あー、行き詰まった時にはなんか食べたくなるんだよな。」 たしかに今までもチョコレートを咥えつつ廃人一歩手前の状態で曲作りをしていた色を目にしたことがある。 あるけども、だ。 「今日が何の日かわからず自らチョコレートおねだりしちゃうなんて、よっぽど疲れてるんだねぇ。」 は?と半開きだった色の瞳がぱちりと開いた。 「チョコレート食べたかったなら、僕が貰ったの分けてあげたのに。」 僕はトドメに足元に置いていた紙袋を手に取り中身を自慢してやった。 色とりどりの箱に綺麗にかけられたリボン。それを目にした瞬間、色の顔から血の気が引いていく。 「……今日、何日だ。」 聞いておきながら自らのズボンのポケットからスマホを取りだし答えを目にした色は、その場に勢いよく立ち上がった。 「色はこういうイベント事嫌いかな、って美鳥君ここ数日ずっと悩んでたみたいだよ?」 僕の言葉は聞こえていたのかいないのか。 「っ、」 珍しく顔を真っ赤にした色は、破壊せんばかりに勢いよくドアを開け、全力で走り去っていった。 「おうおう、青春だねぇ。」 遠ざかっていく足音を聞きながら、木崎先生がぽつりと呟いた。 僕は全開になっていた戸を閉めて、先生の隣へと腰を下ろす。自分用にと入れたカフェオレはすっかりぬるくなってしまっていた。 「あの二人、多分戻ってこないよね。せっかく手伝ってもらおうと思ったのになぁ。」 手にしたままになっていた紙袋の中身を覗き込み、思わずため息が漏れた。 「去年より増えたんじゃねぇか?」 「まぁね。生徒会長なんてやらせてもらってるし。それに今年はあれよ、美鳥飛鳥なんて有名人連れ歩いてるから知名度上がっちゃったんだよねぇ。」 基本的に常に揉め事は避けたい八方美人な僕は、クラスや生徒会でお世話になってるからと女子達からお中元お歳暮みたいな感覚で毎年チョコレートをいただいてしまう。中にはまぁ、そういう意味でくれた子もいるのかもしれないけど。 それに加えて今年は校内どころか全国レベルで顔を知られる有名人と一緒にいたことがまずかったらしい。 お世話になってるからと僕にチョコレートを手渡してから、そわそわと明らかに態度を変え、ついでに美鳥君に渡して欲しいと気合いの入ったチョコレートを何度渡されそうになったことか。いや、この場合僕に渡したチョコの方がついでなんだろうけど。 本来なら僕よりももっと長い時間美鳥君と一緒にいる人間がいるはずなのに、目つきの悪い近寄り難いオーラを放っている色の方にはおそらく声をかけられた勇気ある女子はいないだろう。 「美鳥君にも恋人がいるかもしれないし、勝手には預かれないって断りはしたんだけどねぇ。多分本人に直接渡しに行った子も多いんじゃないかなぁ。」 「有名人は大変だな。」 俺には縁のない話だなと、素知らぬ顔で食後のコーヒーを飲み始めた先生に、僕は気づかれないように息を飲む。 平然を装って、紙袋の中から一つの箱を取り出した。 「そんなわけでさ……手伝ってよ。」 沢山もらったから。一人じゃ食べきれないから。もっともらしい理由をつけて差し出したチョコレート。 先生は一瞬僕の顔を覗き見たけど、何も言わず小さく息を吐いてそれを受け取ってくれた。 「……はいはい。手伝ってやるよ。」 日本酒入りなんて、甘党な僕には絶対渡されないようなビターなチョコレート。 生徒からもらうわけにはいかないと毎年全ての贈り物を断っているはずの先生。 それら全ての事実を見なかったことにして。 僕達はほんの一瞬だけ視線を合わせてから、何食わぬ顔でそれぞれコーヒーとカフェオレの入ったマグカップを手に、無言でそのほろ苦さと甘さを飲み込んだ。

ともだちにシェアしよう!