6 / 17
お人好しビターに甘いミルクを
「失礼しまーす。」
放課後の数学準備室に響いた元気のいい声に、俺は思わず流し読みしていた新聞から顔を上げた。
「先生、日誌持ってきました。」
デスクを向かい合わせに四つほど並べただけの狭い室内に明るい声が響く。
幼さの残る少し高めの声。身を包む制服が少し大きい気がするのは、小柄な為サイズがなかったのか、それともいずれ合うようになるだろうという新入生特有の淡い期待からなのか。
出席番号一番、|藍原晃《あいはらあきら》。
今年新入生代表の挨拶をつとめた成績優秀なこの生徒は、俺の受け持つ1-Aの生徒でもある。
こいつとここで会うのは入学式からまだ五日しかたっていないというのに昨日に引き続き二度目だ。
どうぞと手渡された日直日誌をとりあえず受け取って、目の前の書類の束の上に積み上げた。
「藍原、お前昨日も日誌書いただろう。井上はどうした。」
日直は二人一組。日誌は交代で記入して準備室まで持ってくるようにと昨日伝えたばかりだったはずだが。
俺の問いに藍原はえへへと悪戯が見つかった子供のように無邪気な笑みを浮かべる。
「僕が書くよって引き受けちゃいました。見逃してください。」
お願いしますと上目遣いに両手を合わせるその態度を見る限り、あくまでも自ら進んで引き受けたようだが……
成績優秀、人当たりもよく、気配りもできる。そういう生徒の方が実は危ない。数年やってきた教師人生と二十七年の人生経験が、この笑顔に違和感を覚えていた。
じ、と無邪気な笑顔を凝視すれば、藍原はその視線の意味を正確に読み取ったらしい。
「やだなぁ、虐めとかじゃないですよ?井上君彼女と駅で待ち合わせしてるとかでソワソワしてたからつい、ね。これから先遠距離になる訳ですし、早く会わせてあげたいじゃないですか。」
ぱたぱたと手を振り苦笑いと共に出てきた説明は、まあ一応納得のいくものだった。
この|彩華《さいか》高校はド田舎にある全寮制の高校だ。校内や寮で部外者と面会する事は規則上かなり難しく、かつ最寄り駅からこの高校までの長い道のりを唯一運んでくれるバスは二時間に一本しかないという、思春期の生徒達には中々に厳しい環境だ。藍原が手を差し伸べてやりたくなるのもわかる。
が、しかしだ。
「……で、日誌以外の仕事は?手伝わせたんだろうな?」
日誌の記入だけでなく、朝と放課後の教室の掃除を始め日直はいくつかの雑用をこなさなければならないはずなのだが、朝の掃除も、俺の受け持つ数学の授業終了時に黒板を消していたのも、全て藍原だったと記憶している。これで放課後の掃除と日誌の記入まで引き受けたとなれば、理解出来る行為ではない。
じ、と再びその顔を凝視すれば、今度はその大きな瞳が気まずそうにそらされた。
「あはは、まぁ、ね。やらなきゃ駄目だよって声かけるの面倒臭いんですよね。今度はちゃんとやるって言ってましたし。」
虐めじゃないんですよ?とそこはしっかり強調してきて、思わず呆れのため息が漏れてしまった。
要するにこいつは重度のお人好しらしい。人生損してるタイプの奴だな。
色々と言いたいことはあったが、全てを飲み込みため息として吐き出した。
「……お前、甘いもの好きか?」
「はい?えっと、好きですけど……?」
何となく不憫に思った事と、ほんの少し残る笑顔への違和感から俺は気がつけばそう口にして、目の前の椅子を引いていた。
わけもわからず俺の促すままに目の前の椅子に座ったのを確認してから、俺は席を立ち部屋の奥の冷蔵庫からラップをかけられた一切れのチーズケーキを取り出しフォークを添えて目の前に差し出してやった。
大きな瞳が、皿と俺とをきょろきょろさまよう。
「えっと、」
「……食堂で試作品だって貰ってな。何となく断れず持ち帰ったんだが、甘いの好きじゃねぇんだよ。」
何となく気恥ずかしくて視線から逃げるように背を向けて、部屋の奥の簡易キッチンに置いている電気ポットに水を入れてセットする。
足元の棚を開けて取り出したガラスポットにドリッパーをのせ、適当に粉コーヒーをスプーンで掬った。
二人分のカップを用意している間に電気ポットがポコポコと音を立てはじめる。
「ご褒美って事ですか?」
くすくすと笑いながらそう問われれば素直に返事をするのはなんとも気まずくて。無言でコーヒーを入れてマグカップを差し出してやった。
藍原もそれ以上は聞かず素直にカップを受け取ってありがとうございますとご丁寧に頭を下げる。
「いただきます。」
礼儀正しく両手を合わせてからフォークでチーズケーキを一掬い。大きく切ってパクリと口へと運べば、瞬間その大きな瞳は更に大きく見開かれ、口元は大きく弧を描いた。
「おいしい!うわ、これ試作品でしたっけ?絶対正規メニューにしてくれって伝えといてくださいよ。」
どうやら予想以上にお気に召したらしい。
大きくカットしたケーキを口に頬張りもごもごと口を動かすその姿は、さながらハムスターのようだ。
っていうか、そんな顔できるんじゃねーか。
こんな砂糖の塊みたいな食べ物の何がそんなにいいんだか。ご機嫌な小動物を眺めながら俺はマグカップを片手にふぅ、と一息吹きかけてからコーヒーを啜った。甘いものは疲れを取るなんてよく聞くが、やっぱり俺には甘さより苦さの方がいい。
そこまで考えて、ふと二口目を飲もうとした手が止まる。
「あ、お前ブラックで大丈夫だったか?」
自分用のついでにいつものように入れてしまったが、これだけ甘いものが好きならもしかしなくとも、
「はい、苦手です。」
言葉と共に返ってきたのは何故か楽しそうな笑み。
少しだけ眉間に皺を寄せた藍原は、それでもマグカップを手に取りこくりと傾けた。
「苦手なんですけど、飲むようにしてるんです。」
意味がわからず顔を顰めて首を傾げればふふ、っとどこか切なげな笑みが返ってくる。
「隣で一緒に飲みたいじゃないですか。」
多分、それは今目の前にいる俺の事ではない。が、誰とは聞かなかった。
その先に踏み込んではいけない空気がそこにはあって。俺はそれ以上は何も聞かず、溶けそうな笑顔でケーキを頬張っては眉を顰めてコーヒーを飲む不思議な存在を横目に、コーヒーカップを傾けていた。
ともだちにシェアしよう!