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掴んで離さない
「いい?タッパーに入れておかず冷凍してるからね。毎日チンして食べること。」
「へいへい。」
「五日くらいは持つと思うから、包帯外れたら後はちゃんと自炊するんだよ?」
「へいへい。」
橙をしていた空にゆっくりと薄闇の絵の具が溶けていく時刻。
|彩華《さいか》高校独身寮の玄関では、なんとも情けないやりとりが繰り広げられていた。
「ちゃんと聞いてる?」
「はいはい。」
「はいは一回。」
「……はい。」
校長への直談判……は見事に却下されたものの、教え子様の脅しにも近い交渉によって何とか教師を続けられることとなった本日。
夕方に食べ盛り男子高生三人にがっつり焼肉を奢らされた後、今日から学生寮に戻るという約束通り荷物をまとめていたはずなのに。少しだけ時間をくれというから何事かと思えば、買いだめていた食材をキッチンに広げ、それら全てを綺麗に使い切ってあっという間に全部料理に変えてしまった。本当にこいつは何をやらせても優秀らしい。
黒目がちの大きな瞳、平均身長を下回る小柄なその見た目は下手をすると中学生と言われても通用するかもしれないくらい幼いのに、こいつはその辺の大人よりよっぽどしっかりしている。しっかりしすぎて心配になるくらいだ。
「あと、気に入ってたっぽいから、鍋に肉じゃが多めに作っといた。今日はそれ食べてね。」
「へいへい。」
大きめのリュックを背負い、お邪魔しましたと玄関を開けたはずなのに。帰宅の一歩を踏み出すまでがまぁ長いこと長いこと。
くどくどと玄関先での説教混じりの伝達事項に適当に相槌を返していたら、むすっと不機嫌に頬をふくらませていたその顔が、突然じ、と至極真面目な表情を作り真っ直ぐに俺を見上げた。
「……不摂生な生活して心臓発作で突然死なんて事になったら、泣いてやるから。」
「、」
思わず言葉を失った。
先程までのからかい半分で出た言葉ではない。それは、へらへらした顔の下から時折ほんの僅かにのぞかせるこいつの本心。甘えベタなこいつが見せた執着だ。
父親を亡くしたこいつにそこまで言わせて、適当に流せるほど俺の心臓は図太くできていない。
「……わーってるよ。ちゃんと自炊する。」
大丈夫だとその頭に手を伸ばし雑に髪をかき乱してやれば、不安そうに揺らいでいた大きな瞳は満足そうに細められた。
「晩御飯だけじゃなくて、朝もお昼も作るんだよ?」
「へいへい。ったく、お前は俺のオカンかっての。」
いい加減にしつこい、とむすっと口を引き結べば、逆に目の前の口元はニヤリと弧を描く。
「オカンじゃなくて、嫁希望なんだけどね。」
「な、」
ぐいっとシャツを掴まれたと思った時には背伸びしてきたすまし顔が、焦点が合わないくらい至近距離にあって。唇に落とされた熱は、こちらが反応するより早くあっという間に離れていった。慌てて口元を抑えたところでもう遅い。
「っ、藍原、お前な…」
「ごめんごめん、これで最後。ちゃんと生徒に戻るってば。」
ペロリと舌を出し、うっすらと頬を染め照れ笑いされれば、苦言を呈するために開いた口はそのまま閉じるしかなかった。
「じゃ、お邪魔しました。」
「おう。……色々ありがとうな。」
ひらりと振られた小さな手に軽く振り返せば、パタンと扉の向こうに消えた笑顔。
訪れた静寂に、無意識に深いため息が出た。
未練がましく閉じられた玄関を見つめ続けていた自分に気づいて、誰もいないというのに誤魔化すように自らの髪をかき乱して慌てて踵を返す。その足はそのまま台所へと向かった。
コンロに置かれたままの鍋の蓋を開ければ、ほくほくとした湯気があがる。漂う甘い香りと照りのついたじゃがいもがなんとも美味そうだった。
ここ数日の同居生活で俺の胃袋は既に目の前の料理の美味さを覚えてしまったらしい。数時間前まで教え子達と焼肉を取り合っていてはずなのに、条件反射のように湧いてきた食欲に棚から適当な皿を取りだして肉じゃがを盛り、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出した。
利き手を負傷している為、箸ではなくフォークを片手に。いただきます、と呟いてから口に含んだ味はやはり絶品だった。
はぁ。と盛大にため息が漏れる。
数日後にはこの味が食べられなくなるのかと思うと、あいつの料理を口にしているのに既に寂しさを感じている。
「……情けねぇな。」
一回りも年の離れた教え子に、もはや完全に手玉に取られ振り回されている。適当に遊んで相手を探せなんて言ってはみたものの、俺の方から手を離してやる事はもう出来そうにない。それくらい自分の中の深い部分をあいつに占拠されてしまっていた。
自炊しろ。同居生活中耳にタコが出来るほど聞かされた言葉が、頭の中でリフレインする。
そもそもこんな美味いもの食わされて、もうコンビニ弁当やカップ麺生活に戻れる気がしない。それに何より……
いつもの習慣で缶ビールを片手にしながら口寂しさを感じてポケットにねじ込んでいた煙草を取り出してはみたものの、口にくわえる前に我に返った。
――泣いてやるから。
「……くそっ、」
開けたばかりだった煙草を箱ごとぐしゃりと握り潰す。そのまま壁際のゴミ箱に投げ捨てた。
「一回り年上に死ぬなって……無理言うなっての。」
それでも、もうあいつを泣かせたくはないから。
とりあえず口うるさい嫁候補の言う通り、食生活の改善からやってやろうじゃないか。
手にしたフォークでじゃがいもを刺して口に放り込む。
衝撃を受けるような味、というわけじゃない。どこか懐かしさを感じる素朴な味わいが身体に染み込むように広がっていく。優しい、優しい味。
「……こんなもん、作れる気がしねぇっての。」
再び吐き出した盛大なため息は、妙に広く感じるようになってしまった部屋に静かに溶けて消えていった。
お前の飯が食いたいって情けなく泣きつくのは、あと一年先の話。
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