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掴んで離さない
「時間がないときは電子レンジなんて文明の利器を大いに活用していいんですよ。でもね、じっくりゆっくり味と愛情を染み込ませるとやっぱり一味違うもんですよ。」
シワの刻まれた小さな手がおたまに乗ったじゃがいもに竹串をさす。抵抗なくすっ、と入ったのを確認して小皿に移されたそれは、僕の目の前に差し出された。
どうぞと笑顔と共に渡されたじゃがいもを一口。
「美味しい。」
衝撃を受けるような味、というわけじゃない。どこか懐かしさを感じる素朴な味わいが身体に染み込むように広がっていく。優しい、優しい味だ。
僕の家の向かいにある大豪邸の櫻井家。その広い広いキッチンで本日はハルさんによるお料理教室が開催されていた。
両親が離婚する事になったから、自活できるように料理を教えてほしい。 お仕事の様子を見せてもらってやり方を覚えられればと、その位の感覚でハルさんにお願いしてみたのだけど。何故か話を聞きつけた色のお母さんこと、伝説の元オペラ歌手、櫻井響香さんが、私も混ぜて!とノリノリで参加を表明しために、生徒二人の本格的お料理教室開催に至ったわけだ。
僕が中学校から帰宅して櫻井家にお邪魔するのを待って、いつもより早めに夕飯の支度兼ハル先生の講義は始まった。僕は持参した家庭科で作ったチェック柄のエプロンを、響香さんはハルさんに借りた白い無地のエプロンを身につけ、長い黒髪は後ろでひとつにまとめていて、どちらも気合十分だ。
ちなみに、この家の住人で友人でもある櫻井色は本日はヴァイオリン教室の為不在だ。
真っ白な割烹着に袖を通したハルさん。皺の刻まれた手が魔法みたいにお野菜を一口大に刻んで、キッチンに並べられていた野菜達を肉じゃがに変えていくのを、僕もぎこちない手つきで真似ながらメモをとりつつ奮闘していた。
さすがは長年櫻井家に家政婦として通うハルさん。ゆったりとしているようで動きにまるで無駄がない。これを習得するにはかなりの時間がかかりそうだ。
「人参も召し上がってみますか?」
「あー、ずるーい。私も私も。」
「おば…響香さんは晩御飯に出るじゃん。」
「目の前にあるのに食べられないなんて拷問じゃない。晃さんだけずるいわよぉ。」
「うふふ。はいはい、奥様もどうぞ。」
差し出された人参を、響香さんはあーんと口で受け取って頬を抑えながら満足そうに顔をほころばせる。
舌の肥えた主人にこんな顔させちゃうんだもん、やっぱりハルさんは凄い。
「煮物は難しいし面倒くさいなんて言われますけどね、作り方は覚えておいて損は無いですよ。肉じゃがは最強の武器ですから。」
いたずらにウインクをするハルさんに、僕と響香さんはほとんど同時に首を傾げていた。
「愛嬌振りまくより、胃袋を掴んじゃった方が強いんですよ。肉じゃがはねぇ、『何食べたい?』の答えにまず間違いなく上がってくる定番メニューですから。」
おちゃめな答えに思わず笑ってしまった。
なるほど、実際今日の献立も食べたいものありますかと響香さんに聞いた結果だし、素敵な旦那様がいる年長者の言葉はしっかり聞いておくべきなんだろう。
「私も胃袋掴みたぁい。」
「いや、響香さんもうラブラブな旦那様がいるじゃん。」
「それでもやっぱり出来るに越したことはないもの。でないと誠一さんをハルさんに取られちゃうかもしれないじゃない?」
ねー、と響香さんが同意を求めれば、ハルさんはまぁまぁと楽しげに笑う。
「でしたら奥様には私以上に料理上手になっていただかないと。」
「うー、それ絶対無理じゃない。」
もう、と響香さんが口をとがらせる顔が可愛くて、僕とハルさんはほとんど同時にふきだしていた。
でも確かに響香さんの言う通り、ハルさんの料理は最強なんだよなぁ。
伝説のオペラ歌手も、世界のマエストロも、……無愛想な僕の幼なじみも、み〜んなハルさんに胃袋掴まれてるんだから。
「……ハルさんを超えなきゃいけないって、無理だよねぇ。」
「そうよ!ハルさんのお料理は世界一なんだから。」
「おやおや、おだてたって何も出ませんよ。さあ、続きをやりましょうか。」
パチン、とシワの刻まれた手が両手を合わせた音で、僕の意識はまな板の上へと戻される。
「肉じゃがの次はおひたしを作りましょう。」
「「はーい。」」
響香さんと一緒に元気よく返事して、僕はまな板の隣に置いていたメモ帳とペンを手に取った。ハル先生の告げる分量を一つ一つ書き記していく。
しっかり量って、レシピ通りに作るだけ。ハル先生はそう言うけど、まだまだ先は長そうだ。
「僕も胃袋掴めるくらいに出来るようになるかなぁ。」
「できますとも。晃さんは器用でいらっしゃいますから、きっとすぐ上達して誰かの為にお料理できるようになりますよ。」
いつか、誰かに。
父さん以外の人とも二人で食卓を囲む日が来るんだろうか。
今はまだ想像もつかないけど、とりあえず舌の肥えすぎた幼なじみに不味いと言われない程度のものは作れるようにならないと。
ハル先生の穏やかで心地よい声に耳を傾けながら、メモを取る手に力を込めた。
「いい?タッパーに入れておかず冷凍してるからね。毎日チンして食べること。」
「へいへい。」
「五日くらいは持つと思うから、包帯外れたら後はちゃんと自炊するんだよ?」
「へいへい。」
橙をしていた空にゆっくりと薄闇の絵の具が溶けていく時刻。
|彩華《さいか》高校独身寮の玄関では、なんとも情けないやりとりが繰り広げられていた。
「ちゃんと聞いてる?」
「はいはい。」
「はいは一回。」
「……はい。」
校長への直談判……は見事に却下されたものの、教え子様の脅しにも近い交渉によって何とか教師を続けられることとなった本日。
夕方に食べ盛り男子高生三人にがっつり焼肉を奢らされた後、今日から学生寮に戻るという約束通り荷物をまとめていたはずなのに。少しだけ時間をくれというから何事かと思えば、買いだめていた食材をキッチンに広げ、それら全てを綺麗に使い切ってあっという間に全部料理に変えてしまった。本当にこいつは何をやらせても優秀らしい。
黒目がちの大きな瞳、平均身長を下回る小柄なその見た目は下手をすると中学生と言われても通用するかもしれないくらい幼いのに、こいつはその辺の大人よりよっぽどしっかりしている。しっかりしすぎて心配になるくらいだ。
「あと、気に入ってたっぽいから、鍋に肉じゃが多めに作っといた。今日はそれ食べてね。」
「へいへい。」
大きめのリュックを背負い、お邪魔しましたと玄関を開けたはずなのに。帰宅の一歩を踏み出すまでがまぁ長いこと長いこと。
くどくどと玄関先での説教混じりの伝達事項に適当に相槌を返していたら、むすっと不機嫌に頬をふくらませていたその顔が、突然じ、と至極真面目な表情を作り真っ直ぐに俺を見上げた。
「……不摂生な生活して心臓発作で突然死なんて事になったら、泣いてやるから。」
「、」
思わず言葉を失った。
先程までのからかい半分で出た言葉ではない。それは、へらへらした顔の下から時折ほんの僅かにのぞかせるこいつの本心。甘えベタなこいつが見せた執着だ。
父親を亡くしたこいつにそこまで言わせて、適当に流せるほど俺の心臓は図太くできていない。
「……わーってるよ。ちゃんと自炊する。」
大丈夫だとその頭に手を伸ばし雑に髪をかき乱してやれば、不安そうに揺らいでいた大きな瞳は満足そうに細められた。
「晩御飯だけじゃなくて、朝もお昼も作るんだよ?」
「へいへい。ったく、お前は俺のオカンかっての。」
いい加減にしつこい、とむすっと口を引き結べば、逆に目の前の口元はニヤリと弧を描く。
「オカンじゃなくて、嫁希望なんだけどね。」
「な、」
ぐいっとシャツを掴まれたと思った時には背伸びしてきたすまし顔が、焦点が合わないくらい至近距離にあって。唇に落とされた熱は、こちらが反応するより早くあっという間に離れていった。慌てて口元を抑えたところでもう遅い。
「っ、藍原、お前な…」
「ごめんごめん、これで最後。ちゃんと生徒に戻るってば。」
ペロリと舌を出し、うっすらと頬を染め照れ笑いされれば、苦言を呈するために開いた口はそのまま閉じるしかなかった。
「じゃ、お邪魔しました。」
「おう。……色々ありがとうな。」
ひらりと振られた小さな手に軽く振り返せば、パタンと扉の向こうに消えた笑顔。
訪れた静寂に、無意識に深いため息が出た。
未練がましく閉じられた玄関を見つめ続けていた自分に気づいて、誰もいないというのに誤魔化すように自らの髪をかき乱して慌てて踵を返す。その足はそのまま台所へと向かった。
コンロに置かれたままの鍋の蓋を開ければ、ほくほくとした湯気があがる。漂う甘い香りと照りのついたじゃがいもがなんとも美味そうだった。
ここ数日の同居生活で俺の胃袋は既に目の前の料理の美味さを覚えてしまったらしい。数時間前まで教え子達と焼肉を取り合っていてはずなのに、条件反射のように湧いてきた食欲に棚から適当な皿を取りだして肉じゃがを盛り、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出した。
利き手を負傷している為、箸ではなくフォークを片手に。いただきます、と呟いてから口に含んだ味はやはり絶品だった。
はぁ。と盛大にため息が漏れる。
数日後にはこの味が食べられなくなるのかと思うと、あいつの料理を口にしているのに既に寂しさを感じている。
「……情けねぇな。」
一回りも年の離れた教え子に、もはや完全に手玉に取られ振り回されている。適当に遊んで相手を探せなんて言ってはみたものの、俺の方から手を離してやる事はもう出来そうにない。それくらい自分の中の深い部分をあいつに占拠されてしまっていた。
自炊しろ。同居生活中耳にタコが出来るほど聞かされた言葉が、頭の中でリフレインする。
そもそもこんな美味いもの食わされて、もうコンビニ弁当やカップ麺生活に戻れる気がしない。それに何より……
いつもの習慣で缶ビールを片手にしながら口寂しさを感じてポケットにねじ込んでいた煙草を取り出してはみたものの、口にくわえる前に我に返った。
――泣いてやるから。
「……くそっ、」
開けたばかりだった煙草を箱ごとぐしゃりと握り潰す。そのまま壁際のゴミ箱に投げ捨てた。
「一回り年上に死ぬなって……無理言うなっての。」
それでも、もうあいつを泣かせたくはないから。
とりあえず口うるさい嫁候補の言う通り、食生活の改善からやってやろうじゃないか。
手にしたフォークでじゃがいもを刺して口に放り込む。
衝撃を受けるような味、というわけじゃない。どこか懐かしさを感じる素朴な味わいが身体に染み込むように広がっていく。優しい、優しい味。
「……こんなもん、作れる気がしねぇっての。」
再び吐き出した盛大なため息は、妙に広く感じるようになってしまった部屋に静かに溶けて消えていった。
お前の飯が食いたいって情けなく泣きつくのは、あと一年先の話。
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