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三十五 最後の夜
『一回、ヤっとく?』
と、軽く言った言葉が、ずしりと胸にのし掛かった。
「――ァ」
声を出そうとして、うまく出せなかった。ヒリヒリと、目の奥が痛む。
吉永が、本当に軽く言ったわけじゃないのは、解っていた。相応の覚悟を持って、そう呟いた言葉を、はね除けることなど出来る筈なく。
かといって、簡単に受け入れるほどの軽薄さが、俺にはなく。
指先を伸ばし、頬に触れる。吉永がホッとした顔をした。その顔で、強張っていたことに気づいて、腕を引いて抱き締める。
顔を寄せ、唇に触れる。舌の熱さ
に胸が震える。心臓が、痛い。
「――、ん……」
吉永は俺の背に腕を回そうとして、両手にみかんを持っているのに気づいて、フッと笑った。
額をすり寄せ、鼻先を合わせる。
「部屋、行こうか……」
「……うん」
互いに、言葉は少なかった。殆ど喋らないままに、吉永の部屋にたどり着くと、縺れ合うようにベッドに転がった。
唇を重ね、舌を絡める。互いの間にある衣服が邪魔すぎて、早く脱いでしまいたくなる。衣擦れの音が響く。電気もつけずに絡み合い、服を剥ぎ取る。
吉永も俺も、余計なことを何一つ言わずに、ただ互いの熱を貪った。
指先を絡め、皮膚に舌を這わせ、一つ一つ、味わうように、丁寧に愛撫する。同時に、めちゃくちゃに壊したくなるほどの衝動で、歯を立てた。
吉永の爪が、背に食い込む。歯が、喉を食らう。
シーツを擦る音が。ギシギシと軋むベッドの音が。互いの息づかいが。濡れた粘液の音が。
「っ……」
ぎゅっと、吉永がしがみついてきた。心臓が、痛い。鼻の奥がツンとする。目の奥が熱い。
歯を食い縛り、堪える。
名前を呼んだら、何かが溢れて出てしまいそうで、言えなかった。
「―――っ……」
吉永が一瞬だけ、何か言いたげな気配をさせた気がした。けど、結局は何も言わなかった。
ただ、俺の背に腕を回して、抱き寄せて来る。
吉永の肌の匂い。体温。柔らかな髪。
この夜が明けたら、明日からは元の二人に戻る。
この腕を、離しがたくて。
もう二度と、触れられないというのが、信じがたくて。
夜が明けなければ良いのに。
朝なんか来なきゃ良いのに。
二人混ざりあって、溶けてしまえば良いのに。
どうして俺たちは、他人で、男同士なんだろうか。
この先、吉永がどんな相手と付き合うことになっても。俺が、どんな相手と付き合うことになっても。
きっと、吉永のことを、忘れられない。
この夜を、永遠に覚えている。
「――、吉永……っ」
胸の奥底から、声が溢れた。吉永は返事の代わりに唇を軽く合わせた。
そして俺は。
吉永との関係を終わらせた。
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