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六十四 律

 午後の眠気を堪えながら、パソコンに向かう。溜まったメールを処理しながら欠伸を噛み殺していると、課長が声を掛けてきた。 「おい久我。休憩行こうや」 「あ、はい」  開いていたメールを一時保存し、立ち上がる。福島課長はこうして、時々休憩に誘ってくれる。話題は大抵、流行っているガジェットや山の話だ。 「五月の末ごろな、山行こうと思うんだ。今度は安達太良山あたり」 「へえ。どんな感じなんです?」 「ロープウェイもあるから、初心者向けの登山コースがある。そこなら良いだろう。どうだ?」 「是非、お供します」  コーヒー片手に頷くと、課長は満足そうに頷いた。土日が潰れるのは痛いが、付き合いは仕方がない。それに、まだ先の話だ。  課長はタバコを吐き出しながら満足そうに頷いた。俺はタバコはやらないが、喫煙者と付き合うにはこうやって喫煙所にまで入る必要がある。なんとなくコーヒーを飲んでいるが、水蒸気タバコくらいやっても良いのかも知れない。喫煙所だけで話される会話に乗れないと、男社会では生きにくい。 「そうそう。夕暮れ寮の十周年。俺も行くからな」 「そう言えばOBでしたね」  今週末はもう、十周年の祝賀会だ。知らない人も多く来るのだろう。 「もう退社した奴らにも声がかかってるらしいな」 「そうなんです? 退社って、脱サラってことですか?」 「そうそう。辞めて自営業やってるヤツとか、起業したヤツとか。専業主夫なんてのも居たなあ」  カラカラと笑いながらそう言う。どこか、バカにした口調だった。夕日コーポレーションの社員として、定年まで勤め上げることこそが、最高の人生だと考えている人間なのだ。離脱した人間は、ダメなやつだと思っているのだろう。  多少の不愉快さを感じながら、曖昧に笑う。 「あんま、飲ませないで下さいよ? 特に若いの」 「なに言ってんだ。飲んでなんぼだろう」  飲ませる気まんまんの課長に、呆れながら愛想笑いを浮かべる。無性に、吉永に会いたくなった。  会って、抱き締めたかった。    ◆   ◆   ◆  シャワーから出たところで、自室に向かうため階段を上る吉永に遭遇した。今日は残業だと聞いていたので、会えないと思っていたが、ラッキーだ。 「吉永っ」 「ん? おー。風呂上がり?」 「ああ。お帰り。お疲れ」  傍に駆け寄ると、吉永はくすぐったそうに笑う。笑顔に胸がザワザワとざわめいた。 「吉永、部屋行って良い?」  こそっと耳打ちする俺に、吉永が真っ赤な顔で首を振る。 「だっ、ダメって言っただろ!」 「けど」  ぐい。と手首を掴んで、身体を寄せる。じぃっと、吉永の目を覗き込んだ。 「けどさ、週末は祝賀会じゃん。今週、ナシ?」 「っ……それは。祝賀会は土曜日だろ。日曜で、良いじゃん」 「俺、絶対飲まされるし。次の日使い物になんないと思うけど」 「――でも」  目をそらす吉永に、額をくっつけて懇願する。 「ね、お願い。じゃないと――」 「じゃないと?」 「解るだろ? 俺、爆発しそう」  鼻先を擦り付けてお願いする。我慢比べは限界だ。 「でも……」 「吉永は、俺ナシでも良いんだろうけど?」  意地悪な言い方に、吉永がムッと顔をしかめる。 「は? そんなこと」 「そんなことない? あんなに誘ってきてたのに、週末だけで満足してんの?」  手を伸ばし、尻を掴む。吉永はビクッと震えながら「おい」と睨む。 「吉永、エッチな身体なのに、無理でしょ?」  暗に、俺が居なくても、一人慰めているのだろうと、批難する。図星なのか、ばつが悪そうだ。 「あの、なぁ……っ。航平っ、はな……」 「――律」  ビクッ。  吉永が震え、目を見開いた。  名前を呼んだことはない。このタイミングで、とも思うが。  今まで気恥ずかしくて、呼べなかったけど、呼ばれた方にも効果はあったようだ。茹でダコみたいに赤い顔で、唇を震わせる。 「――」 「良いだろ? 律ちゃん」 「っ、……うん」  小さく頷く吉永に、思わず抱きつく。吉永が「うわっ!」と驚いて、身じろぎする。 「最高」 「っ、ばか……」

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