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七十 痛み
知らない。
俺の知らない、吉永の顔。
律と呼ばれ、石黒と過ごした日々を、俺は知らない。どんな風に笑ったのか。どんな風に触れたのか。
『迎えに来るって約束しただろ』
石黒の声が、脳内にこだまする。
置いていったって、なんだ。迎えに来るって、どう言うことだ。
心臓がぎゅうぎゅうと締め付けられる。痛くて、痛くて、苦しくて。
もしかしたら、吉永は石黒を待っていたんだろうか。長い間、寮にいた理由は、石黒を待っていたからなんだろうか。
拗ねるなよ。そう言った、石黒の声がよみがえる。怖くて、吉永の顔を見られなかった。
耳鳴りが酷い。ズキズキ痛む。
ハァハァと息を荒らげ、廊下を走る。逃げるように、否定するように。
嫌な妄想が、頭を過る。
自分に、やけに良く似た石黒が、吉永の傍に立つのが気持ち悪かった。
もしかして。もしかして、俺は、石黒の代わりだったんだろうか。石黒が居なくなった隙間に埋められた、代用品。
抱き締めた身体も、柔らかい髪も、俺のものじゃなかったら。
心臓が、破けて血が流れそうだ。このまま倒れて、死んでしまいたい。
(ああ――)
胸を掴み、込み上げる嗚咽を呑み込む。
気づいてしまった。気がついて、しまった。
「――吉永、俺に、好きだって――言ったこと、ねぇや……」
吉永が、俺を好きだと、愛してると言ったことが、あっただろうか。あんなに肌を重ねても、一度も言われたことがないことに、今さら気がつく。
どしゃ降りに、降られたような気分だった。全てがどうでも良く、暗い気持ちがのし掛かる。
いつの間にか会場まで戻ってきた俺は、扉の前で立ち尽くした。この扉を開けて、社会人として普通に振る舞えることが、出来る気がしない。
そうやって呆然と立っていると、不意に会場の扉が開いた。
「?」
扉の隙間から、河井さんが顔を出す。俺を見つけて、小走りにやってきた。
「 」
河井さんが何かを言う。口の動きで『久我くん』と言ったのが解った。でも、聞こえない。
「―――」
耳に手を伸ばす。ずくん、ずくんと、鈍く痛む気がした。河井さんの声が、すごく遠い。
河井さんは顔をしかめ、俺の顔を覗き込む。何かを察した顔をして、何か二三言声をかけると、会場に戻っていった。ほどなくして、河井さんが再びやって来る。今度は藤宮と一緒だった。
藤宮が顔を覗き込んでくる。
「~~~」
「すみません、聴こえないです」
顔をしかめながら、聴こえないと訴える。藤宮がスマートフォンの画面を見せた。
『病院に連れていく』
病院。戸惑う俺に、藤宮は河井さんと何か話すと、俺の手を引いた。河井さんは心配そうに見送っていた。
廊下を歩く間、藤宮が付き添ってくれた。耳が不調だと、歩きにくいのだと知った。
途中、吉永がこちらに気がついて首をかしげるのが目に入った。俺は気づかなかったふりをして、そのまま会場を抜け出した。
◆ ◆ ◆
「今も聴こえないかな?」
「……さっきよりは聴こえてます」
連れられた病院で待つ間に、少し症状が落ち着いてきた。まだハッキリとは聴こえないが、先程よりずっと良い。
「うん。多分ストレスだね」
医者の話では、一週間は安静にするようにとのことだった。違和感のある耳が気になったが、仕方がない。
(ストレスか……)
原因など、解りきっている。溜め息が口から漏れでた。
「今日はもう寮に戻った方が良いな。送っていこう」
「何から何まですみません」
藤宮には世話になってしまった。内心、会場に戻りたくなかったので、ちょうど良い。
藤宮の運転する車に揺られながら、ボンヤリと外の景色を眺める。流れていく車の音は聴こえてこず、一人だけ世界から取り残されているみたいだった。
寮に到着し、藤宮に肩を叩かれ促される。施錠された玄関を開けて貰い、エントランスに入る。
藤宮はスマートフォンを取り出して、画面を見せながら会話してきた。
『俺は会場に戻るが、大丈夫か? 誰か寄越そうか』
「大丈夫です。大人しく部屋にいます。ありがとうございました」
誰かに付き添って貰うようなことじゃないし、何より今は一人になりたかった。
それじゃあ、と立ち去る藤宮の背中を見ながら、ふとポツリ呟く。
「あの――吉永って、昔――」
藤宮が振り返り、首をかしげた。
「いや、何でもないです」
藤宮はまだ気にしていたが、手を振る俺に「お大事に」と口を動かすと、玄関口から出ていった。
明かりのついていない、薄暗いエントランスに一人立つ。急に物寂しさが出てきて、胸がざわついた。静かなせいで、余計に耳が気になる。
「……部屋、戻るか」
まだ身体の感覚がおかしい気がする。手すりを頼りに階段を上り、部屋へと向かった。
部屋に入り、明かりを点けてそのままベッドに横たわる。スーツが皺になると過ったが、億劫だった。ネクタイを緩め、ポケットに手を伸ばす。
(朝、ネクタイを結んでくれたときは、幸せだったのに……)
石黒の顔が過って、胸がモヤモヤした。
スマートフォンを手に取る。通知が入っていた。河井さんから『大丈夫?』と入っている。もう一件は、吉永だった。
『何かあった?』
胸がズキリと痛んで、俺はベッドにスマートフォンを放り投げ、瞳を閉じた。
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