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七十二 相談できる相手
二日ほど経ったが、耳の方は完全には回復しなかった。まだ違和感とともに、声が良く聞こえない。小さくキーンと鳴る耳鳴りは、不快で眠りが浅くなった。
週末の旅行をキャンセルするか迷った吉永だったが、結局は「原因がストレスなんだから、羽伸ばしに行こうぜ。温泉入ってさ」と予定を変えないことにした。俺としても、吉永と二人きりで過ごすことが、今は大切な時間だと思っている。寮ではほとんどの時間を、吉永と一緒に過ごした。大津や蓮田たちが心配して様子を見に来たが、友人たちとの会話は何故か疲れてしまった。仕事の方は課長が気を利かせてくれて、割り振られていた仕事は半分も手伝ってくれた。おかげで、身体の方も楽だ。
今日は病院に経過を診せることになっていたので、早退した。思ったより早く終わったので、寮に早めに戻ってくることになった。エントランスに入ると、夕飯の準備をしているらしく食事を作る匂いが漂って来た。こんな時間に寮に帰ってきたことがないので、何だか変な感じだ。普段は殆ど顔を合わせることのない、管理人さんと軽く挨拶をして部屋の方へ戻る。誰もいないと、やることもない。耳が良く聞こえないので、テレビや動画を視る気分にもなれなかった。
「はぁ……」
溜め息を吐いて、ベッドに寝転がる。このまま寝落ちしてしまいそうだ。だが、目を閉じると石黒の顔が浮かんできて、顔を顰めて目を開いた。
「くそ……むしゃくしゃする」
モヤモヤが降り積もって、頭がおかしくなりそうだ。ゴロンと寝がえりを打って、言い聞かせるように呟く。
「あんな奴……。律は俺のだ。渡すもんか……」
そう呟くが、強がりだった。吉永とは歳も離れてるし、俺は結局年下だし。対する石黒は年上だし、社長だし、出来る男って感じだった。俺なんかとは、人生経験が違い過ぎる。そう思うと、吉永は俺と一緒に居て本当に楽しいのか、疑問に思ってしまう。
「クソ……」
ボスとベッドを叩いて、頭を掻きむしる。ストレスは良くないのは解っているが、一人でいると余計に考えてしまう。
「……相談できる相手も居ないしな……」
俺が頼りにしている相手って、吉永しかいない。友人たちはこういった悩みを真剣に聞いてくれるタイプではないし、そもそも恋愛相談なんか出来るわけない。吉永のことを話しても大丈夫な相手が、どれほど居るだろうか。
そんな人間、存在するはずない。そう思って吐息を吐き出したところで、ふと思い出した人物がいた。
「そういえば――」
『当たり前だ。俺のたった一人の弟なんだから。俺は、お前の味方だよ。航平』
久しぶりに会ったのに、そんなことを言う兄のことを思い出した。優しくて、繊細な兄。兄ならば、俺のことを笑わず、馬鹿にせず、気持ち悪がったりせずに、話を聞いてくれる気がした。
「……」
スマートフォンを手に取り、連絡先を見る。兄の連絡先など、俺は知らない。あの時聞いておけば良かった。
(いや、待てよ)
ネットで検索すればある程度のものが出てきてしまう世の中だ。漫画家志望の兄ならば、SNSをやっている可能性もある。フェイスブックなどは偽名での登録は規約違反だし、検索すれば出てくるかもしれない。
意を決して本名や出身地、誕生日で検索を掛けると、それらしいプロフィールが一人該当した。「漫画家志望。アシスタントをしています。」と書かれたプロフィールを頼りにアカウントを見に行くと、写真を数枚捲ったところで確定した。アシスタントをしている先生の誕生日パーティーだと言う写真に、兄が映っていた。ツイートリーもやっているようだ。リンクが張ってあり、そちらは本名をもじったらしいペンネームで活動しているようだった。
(これだ)
俺はSNSはやったことはあるが、投稿する内容もなく、すぐに飽きてしまったのでアカウントは持っていない。だが、操作やSNSの仕様はなんとなく解っている。新規アカウント作成をタップして、プロフィールを入力する。アカウント名は『弟』にしておいた。開設してすぐに兄のアカウントをフォローしてDMを送信する。
通知をオンにしていたのか、兄はすぐに気が付いて返信してきた。数回のやり取りで俺が本当に弟の航平だと解ったらしく、驚くと同時に喜んでメッセージを返してきた。
俺は今、耳の不調があることを伝えて、そのままDMでのやり取りを続けてもらうことにする。連絡先は交換したが、電話ではよく聞こえない。それに、男の恋人がいることを話すのに、兄の声を聴くのは少し躊躇われた。
『付き合ってる男性が居る』
その一言に、メッセージを返信してきた兄は驚いたようだったが、すぐに『馴れ初めを聞かせて!(^O^)』と返事を送ってきた。
俺は時間も忘れて、長いこと兄とやり取りを続けてしまった。
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