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 伊吹生がミーティングテーブルのイスを引いて座るように促すと、恐る恐る入室した少女は立ち止まった。 「……甫、伊吹生……」  掠れた声。伊吹生が一歩近寄れば小動物みたいに過剰に反応し、一歩退いた。 「ああ。ここは甫伊吹生司法書士事務所で、俺はここで働く甫だ」 「七月の、カーニバルで、見た」  思いも寄らなかった発言に伊吹生は耳を疑う。 「ここから近いお店で働く金髪の子を、連れ帰ろうとしてた」  あの夜、あの場にいた「普通種」は生き餌バイトに限られる。伊吹生は記憶を手繰り寄せようとした。しかし、当時は拓斗を連れ戻すのに必死で、プールに落ちた後は凌貴に……少女があの場にいたかどうか、思い出せなかった。 「生き餌バイトに紛れて、ノスフェラトゥにいたの。あのクソ吸血鬼のことを調べるため」  クソ吸血鬼。凌貴のことか。ストレートな悪口に伊吹生は失笑してしまった。 「俺も同感だ」  ドアの前で直立していた少女はポカンとしたものの、瞬時に警戒態勢を取り戻し、左の拳をきつく握った。 「アイツの恋人なのに、そんなこと言うなんて、おかしい」 「それは誤解だ。断じてそんな仲じゃない」 「嘘。プールに落ちたアンタを、忽那凌貴は助けにきた。服を着たまま飛び込んで、たった一人で引き上げて、ぐったりしていたアンタを大切そうに抱き抱えてた」 「……」 「恋人同士みたいだった」  少女との距離を詰めようとはせず、優しい声色に修正するでもなく、伊吹生は淡々と話しかける。 「君は高岡今日花さんの妹なんだろう。お姉さんは、今、どうしているんだ?」  少女の全身がブルリと震えた。  桜色の唇をヒン曲げて、歯を食い縛り、彼女は深く俯いた。 「どうしてるも何も、また、眠れなくなった。しばらく忘れてたのに、テレビであのニュースを見て、またぶり返した」  伊吹生は聞かずとも察しがついた。「忽那ホテル&リゾート」が海外進出したという、自分も目にした数ヶ月前のニュースのことだろう。 「悪い夢に魘されて、またボロボロになりそうで、だから、居ても立ってもいられなくなって、アイツに会いにいった」 「一人で凌貴に会いに? 随分と危ないことをするんだな」  「別に。最初はどうしてるか、お姉ちゃんをあれだけ苦しめておきながら、どんな顔してのうのうと生きてるのか、見るだけのつもりだった、でも」  すぐに凌貴に気づかれた。  九鳥居大学のキャンパスで、彼は物陰に潜んでいた少女の目の前へやってきた。これまで一度も会ったことがないのに『高岡心春さんですね』と、言い当てたという。 「匂いでわかったって。お姉ちゃんとよく似てるって」  今日花の妹・心春(こはる)は驚きの余り、怒りや憎しみをぶちまけることもできず、ただ姉が苦しんでいるとだけ訴えた。  それに対する凌貴の回答が心春にさらなる激情を植えつけた。 『今度はどれくらいの見舞金を送ったらいいですか?』 「死ねって思った。ううん、殺してやりたいって」 「危険だ」  敵意を振り翳してきた相手に凌貴が何をするか。下手したら返り討ちに遭うかもしれない。 「お姉ちゃんがどれだけ凌貴のことを好きだったか。その分、どれだけ打ちのめされたか。ずっと苦しんでたお姉ちゃんに何もしてあげられなくて、私も地獄に突き落とされた気分だった」  フードを被ったままの心春は、かなりの上背がある伊吹生に言い放つ。 「だから、それ以上の地獄に凌貴を突き落してやりたい」  心春はパーカーのポケットに右手をずっと入れていた。 「アイツの大切な人をアイツから奪ってやりたい」  何かを強く握っているようだ。 「アンタと一緒にいるときの凌貴は、いつもと違う。この数ヶ月で誰かのウチに行くのも初めてだった。きっと凌貴にとって一番大切な人」 「君は……ポケットに何か入れているのか」  伊吹生は心春を見据える。敵意を剥き出しにした少女の目つきから、昨日の朝、事務所の前で感じた執拗な視線は彼女のものだったと確信し、提言した。 「凶器なら今、使うといい。そして、ここに置いていってくれ。二度と使わないように」  ポケットに片手を突っ込んだままの心春は、明らかにたじろいだ。 「私にはできないって思ってる? どうして……そんな風に強くいられるの? 吸血種だから?」 「俺は強くない。凶器だって怖い。でも、それ以上に、君に人生を台無しにしてほしくないと思ってる」  やっとポケットから出された心春の手に凶器は握られていなかった。そのまま、彼女は駆け足で事務所を去っていった……。

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