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履歴書と本名

翌日、帰宅した遠田さんはパン屋さんの 募集のチラシと真っ白な履歴書を持って 帰ってきた。 「ちょっと早すぎかなとは思ったんだけど なにせ、パン屋のおばちゃんが ノリノリになっちゃって… こんなの持って返ってきたけど、焦らなくて良いからな」 遠田さんはそんな前置きをして 僕にその書類を渡した。 「そんな!早く働けるのは嬉しい」 手書きで書かれたチラシを見て、 ふと思い出した。 僕、履歴書とか書いたことない… 「あの、この履歴書って…」 「あぁ…、9割がた採用なんだけど、 皆に書いてもらってるからネコヤにも 提出して欲しいらしい」 「僕、履歴書って書いたことなくて…、 教えてもらえないですか…?」 本当に迷惑ばかりかけて 無知でごめんなさいと言う気持ちで 遠田さんをチラリとみると 驚いた顔をしていたけど 「飯終わったら一緒に書くか?」と 笑ってくれた。 夕食と片付けを終えると 僕と遠田さんは並んで椅子に座った。 「とりあえず、わかるところ書いていこう」 「はい」 こういう書類に名前を書くのが 久々で手が震える。 「予備もらってきたから大丈夫だよ」と遠田さんが笑ってるけど、そう言う問題じゃない。 名前と住所を書き終えると隣から 「かねこやひろ?」と声がした。 「ネコヤって本名じゃないのか?」 「あ、隠してたわけじゃないんだけど…、 ネコヤは風俗時代の源氏名だよ」 「辞めたのに源氏名を名乗ってるのか?」 「うん…。なんかね、本名の方はあまり良い呼ばれ方したことないんだ。 源氏名になってからのほうが、良いことが多かったから」 八尋、と呼ばれるのはいつも 家族に怒られる時か クラスメイトにいじめられる時だった。 「そうか。八尋って呼んじゃダメか?」 「えっ…」 久々に呼ばれた名前にドキっとする。 嫌な響きだと思っていた名前も 好きな人から呼ばれると胸が高鳴る。 「…、嫌ならべつに…」 と少し肩を落とした遠田さんに慌てて訂正する。 「ちがっ!ただ、呼ばれ慣れてないし、 なんか顔熱くなるからっ」 ペンを置いて、頰に手を当てると 案の定、熱くなっていた。 「なんだそれ。じゃあ慣れるようにこれから呼ぶようにする」 「お、お手柔らかに…」 最近こう言うことが多い。 ふとした遠田さんの優しさに キュンとしてしまう。

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