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第2話

 この場は後輩である間宮に任せて、肇は急いで職場へと向かった。  急なアクシデントのせいで約束の時間に間に合わないかのように思えた。だが、見知った車が側を走るのを見てほっと息を吐き出した。  肇の方へ寄せてきた車の窓から顔を出したのは、予想したとおりの人物だった。  癖のない黒髪は艶やかで、柔和に下げた目には琥珀がはめ込まれている。顔の印象はそれほど強くはないけれど、この男が穏やかな性格だと予想できるものだった。 「肇、今から仕事?」  声をかけられて普段から感情の読めない緑の瞳が、ほんのりとやわらかな印象に変わった。 「久しぶり。義兄さんこそ、どうしたんだ?」 「僕は通勤途中に通りかかっただけさ……きみこそ、けがはしていないよね?」  職業柄、どうしても怪我をする機会が多くなることもあり、出会い頭から過保護さを発揮している。  一週間ぶりに会う義兄の顔は、心から身を案じるもので肇は胸の奥がくすぐったくなる。 「大丈夫さ。俺が昔から身体が丈夫なのは知っているだろ?」 「身体は確かに丈夫だけど、胃はやられやすいだろう? 今は平気かい?」  反射的に先ほどまで痛んでいた胃のあたりに触れようとしたけれど、拳を握って動きを止める。 「平気だ。義兄さんに処方してもらっている薬も飲んでるから。調子はいい」 「それならいいんだけど」  安堵したように言う皓正に罪悪感が湧き上がる。  最近は薬を飲むのを忘れているだけでなく、胃の調子もあまりよくない。知られないようにするだけで、さらに調子が悪くなりそうだ。  皓正に渡されている薬は、就寝前に飲まなくてはいけないのだが、飲む前にそのまま寝てしまうことが多い。疲れから、なかなか行動に移せないのだ。  知られるとその柔和な顔が鬼のように変わると分かってはいるものの、肇は鉄面皮で秘密を守り通した。 「乗っていくといい。時間があまりないだろう?」 「ありがとう、助かる」  止まっている車の助手席に滑り込むように座ると、なめらかに発進した。  佐野皓正は今は亡き実姉の夫だ。長男である肇が継がなかった佐野製薬会社の社長であり、姉が亡くなってからは、肇が唯一甘えることができる人間だった。  血の繋がりがなくとも、実の兄以上に慕っている。 「最近は仕事の調子はどうなんだ? きみは昔から無理をしやすくて、すぐに体調を崩してたな。そんな感じだったのに、やんちゃでよく怪我をしてたし、本当に目が離せない」  昔の話を出されて、軽く眉根を寄せる。珍しく拗ねているのだが、表面上は不機嫌に見えるだけである。 「今はきちんと管理できているさ。義兄さんの薬もある」 「そう言ってもらえるのはありがたいけど、あまり薬ばかりに頼るのも身体に良くない。できれば、肇のことをきちんと理解して、側にいてくれる人ができれば良いんだけど……」  かなり難易度の高い希望だった。  生憎と人付き合いは得意ではないし、表情は不機嫌なときくらいにしか変化しがない。たまに動いても、正しく感情に合った表情が作れないことの方が多い。  これでは友好的な関係を築くことは、とてもではないが期待できそうにない。 「俺には義兄さんがいるからいいんだ」 「そういうわけにはいかないだろう。ずっと側にいられるものでもないし。それに、大切な人はできるだけ多い方がいい。特にきみのような人間にはね。肇は意外とさみしがりやだから」  くすくすと笑みを浮かべる皓正の瞳は、からかいの色を含んでいて、肇はさらに眉間の皺を深くした。  自分を支えてくれるような大切な人ができることは期待していないし、皓正がいれば十分だった。ただ、肇の想いと皓正の想いは交差しないけれど。  亡くなったとはいえ、妻の世奈のことを義兄はずっと愛している。  世奈は両親と折り合いの悪かった弟を大切に守り、幼い頃から甲斐甲斐しく世話もしていた。年は近いけれど、姉というよりは母に近い存在である。  肇にとっても大切な姉を未だに愛する皓正に、胸に秘めた想いを伝える勇気はない。  告白したとしても困らせるだけである。義兄を悩ませたくないという思いから、ずっと隠して、永遠に秘密のままにするつもりだった。 「義兄さんこそ、仕事はどうなんだ? ……すごく疲れた顔をしている。また徹夜続きなんじゃないのか?」  ハンドルを握る皓正の横顔は決して健康的な色とは言えなかった。目の下には薄ら隈ができているし、顔を見れば肌がかさついているのがよく分かる。無理をしているのが明白だった。 「僕は平気さ。自分の限界は分かっているし、補佐してくれる寺門もいる」  口から出た名前に肇は少しだけ不快感を持つ。  寺門工は肇が苦手とする男である。性格が合わないというだけではなく、皓正の側にいることができて、頼りにされている彼に嫉妬に似た感情も持っている。 「寺門さんは確かに優秀な秘書ではあるけど、体調には気をつけてくれよ……」  皓正の周囲にはいろいろな人がいるけれど、肇の側には皓正しかいない。  血の繋がった肉親はいても、心が許せる家族は彼しかいない。  姉だけではなく、そんな義兄まで失ってしまったら、立ち直れる気がしない。  肇の脳裏に真っ赤に染まったある光景が思い浮かび、さらに表情を険しくする。 「ああ、分かってる。だから、そんな心配しなくても大丈夫だ」  肇が何を思い出したのかすぐに分かったのだろう。皓正の声で波立つ感情が次第に凪いでいく。  表面上は変化のない顔面だが、皓正にかかれば何でも読み取られてしまう。それでも、胸に秘めた恋慕は、知られてはいけない。  それだけは気づかれないように普段から細心の注意を払っている。 「そういえば、今日、新人が配属されるんだ」 「肇の新しい相棒だったね」 「ああ。さっきも狼を見かけたんだけど、あんなふうに周りが見えないやつじゃなければ良いんだけど」 「経験が浅ければだいたいそんなものだろう? 最初から期待しすぎたら、後でがっかりするよ」  ちらと緑の視線を向けると、皓正は朗らかな笑みを浮かべて諭すように語る。  体調には気をつけると言われても、それが実行されることは少ない。それでも倒れるような事態になったことはないので、ある程度は信用できる。  しばらくは、大丈夫だと言う皓正を信じて、様子を見守ることにした。

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