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第6話

 あの頃のことはぼんやりとしか思い出せない。その男の顔や名前も思い出せない。でも本当に忘れたいことほど記憶から消えてくれないのはなぜなのだろうか。  神原はここに来る前も派遣Domの仕事をしていた。あの男はやはり職場で唯一のαSubで、神原と気が合うところも多く、告白されて神原も嬉しかったのは覚えている。  神原はその男と付き合い始めてそこそこのプレイをする仲にまでなった。だが、そのうちに男が仕事を辞めるよう言うようになり、何度か口論をするようになった。いつも男が折れて喧嘩になることはなかったが。  そもそも神原にとって仕事で行うプレイは恋人とのプレイとは全く異なるベクトルのものだ。あれはΩSubへの医療行為であり、救済措置であって、神原にとっては神聖なものですらあった。なにより本番がないどころか、内容は子供のお遊び程度のものだ。神原にはなぜ男がそんなにも怒るのか本気で理解できなかった。あの男を蔑ろにしているわけではなかったし、神原はあの男を愛していたつもりだった。  けれどもあの男には我慢できなかったのだ、と思う。しばらくして、事件は起きた。 「僕と君は運命の番だ。そうに決まっている!君は僕の、僕だけのものなんだ!」  目の前の男が血走った目で蓮華に近づいてくる。多分発情(ラット)を起こしかけているのだろう。通常のΩより強いフェロモン感知抑制剤を飲んでいる神原にも感じられるほどのフェロモンをぶつけられて、体が熱くなっていくのを感じる。 「ほら、君も発情(ヒート)しかけているじゃないか!君のフェロモンの甘い香りがする!」  運命の番だから、発情するはずだ。その思いが強すぎて、神原の発情を無理矢理起こそうとしている。破綻していると思った。運命の番なら最初に会った瞬間にあらゆる薬を無視して発情するものなのだ。それを知らないわけでもなかろうに。  思った瞬間、すっと熱が引いた。いくら恋人でも、いや、恋人だからこそ、こんなレイプのような真似で初体験を迎えることだけは嫌だった。次の発情期に番になろうと2人で約束していた。その時にこの男に処女を捧げることも。それなのに、この男は全部壊そうとしている。信頼を裏切られた怒りが神原の脳内を占めた。 「てめえ、『俺に』何しやがる!」  グレアで目が爆発するかと思った。よろめいた男の股間を容赦なく蹴り上げ、不快な感触とともに男がくずおれる。さらに二、三発蹴りたかったが、なんとか我慢した。  ディフェンスが起きているのだと分かった。ΩDomにたまにみられる、「自分(Ω)を守るための」ディフェンス。資格取得の際に勉強したそれをなぜか冷静に思い出している自分がいた。でも今はそれどころじゃない。  ディフェンスに押される形で発情は治まっていたが、念の為に常に携帯している強い発情抑制剤を取り出して噛み砕く。それからΩの首輪についている通報ボタンを押す。これで数分以内に専門の人間が駆けつけてくれるはずだ。  それから急に恐怖が襲ってきた。発情を誘発される心配はこれでなくなったが、この男が逆上して襲ってきたらどうする?さっきは幸運にも対処出来たが、神原には本気を出したαの筋力に対抗する術は無い。助けが来るまでこの男を起き上がらせてはいけない。絶対に。  それに、そうだ。グレアを止めさせるセーフワードを言われたらおしまいじゃないか。もっと動けないようにしなくては。口も聞けないくらい。  しばらくして駆けつけた職員が見たのは、顔を蒼白にしながら指一本触れずグレアのみで男を地べたに押さえつける神原と、半ば白目を剥き、泡を吹きながら痙攣する男の姿だった。  その後の数ヶ月間の記憶はごっそり抜け落ちているが、事件があった後、あの男は解雇されて刑務所か病院に入れられた、はずだ。しかし神原にはその後もあの男が常にどこかからこちらを見ているような気がしてならなかった。あの男が自由の身になったらそれが現実になるのではないか。そう考えるといても立ってもいられなくなった。幸い金は余っていたので逃げるように退職し、誰にも言わずに引っ越した。両親だけには1度連絡を入れたが、もう自分はいないものと思ってくれと言った。電話の向こうで泣き崩れる声がしたが、それにも構わず電話を切って、すぐに解約した。  それ以外にもあの事件は神原の心に大きな傷を残した。1番影響が出たのが発情期(ヒート)の時だった。体が燃えそうなほど熱いのに、何時間も自分の体に指1本触ることが出来ない。本当に気が狂いそうになって触り始めたら今度は脳裏にあの男の顔がちらつくのだ。全裸の男がこちらに向かってくる映像が絶え間なく襲ってきて、それでも発情期だから手を止めることが出来なくて、快楽より苦痛で泣き叫ぶ。耐えがたいことに酷い時にはあの男に犯される幻覚まで見る。ありえないはずのリアルな感触に貫かれて、死ぬほど嫌なのにそれを発情期の自分(Ω)は喜んで受け入れてしまう。そんな自分にも泣いて、のたうち回って、声が枯れるほど叫んで苦しんで、それまでの発情期が生ぬるく感じるほどの地獄を神原は毎回乗り越えなければならない。そう、今でも。  それでも神原にはこの仕事をやめることは出来なくて、別のDom派遣サービス会社に就職した。ΩSubには罪はない。というよりαSubそのものにも罪はない。新家が入ってきた時もそう頭では理解していたが、苦手意識は消えなかった。いや、逆なのかもしれない。あの男は自分と付き合うまでは普通だったはずだ。この仕事の意義だって、分かっていて働いているはずだった。だから神原もあの男を選んだ、そのはずなのだ。あのαSubを狂わせたのは神原自身だ。そしてSubを相手にする仕事をしていながら、手遅れになるまで何も出来なかったのも神原の失態だ。そう自分を責める気持ちが、神原の心のどこかにあったのかもしれない。

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