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第7話

 どす黒くて深い沼に落ちていくような感覚だった。多くの手が自分の体を引きずり込もうとしていたが、神原には抵抗する気力さえなかった。神原はなぜか、その無数の手がこの空間に囚われた者達の成れの果てで、自分もそうなるのだということを理解していた。静かな絶望と諦めだけがそこにあった。  ふと体の上に重みを感じ、目を開けて声にならない悲鳴を上げる。あの男が裸で自分の体に乗っていた。嫌だ。この黒い沼に飲まれても、これが自分への罰だとしても、それだけは嫌だ。神原は暴れ… 「…さん、蓮華さん!」  その声で勢いよく意識が浮上し、はっと目が覚める。 「ああ、良かった、起きてくれた…」  目を開けると、泣きそうになりながらこちらを覗き込む新家の顔と、病室の天井が目に映った。点滴も見える。まるでいつかと逆のようだ。 「…そうか、俺、ドロップしたのか」 「はい…Domにもあるんですね、ドロップって」  DomにもSubと同じくプレイ欲がある。つまり、Domにも不安症やドロップは存在する。プレイ欲を発散させるあてに困ることがあまりなく、体質的にもSubよりは耐性のあるDomがそのような状態に陥ることはほぼないし、一般的にはその存在すら知られていないが、例はいくつかある。そしてDomもSubと同じく、プレイ不足でない場合でも大きなショックを受けた時急激にドロップすることがあるという。 「あの、神原さんが前の職場を辞めた理由、聞きました。ごめんなさい」  新家が頭を下げる。一応入社時の面接では職場のαSubとトラブルがあって前の会社を辞めたことは伝えていた。詳細は伏せて話したものの企業側だって何があったか調べたはずだ。それを聞いたのだろう。  神原はそれでも採用されたが、まさかαSubが同じ職場に来るとは思っていなかった。上に文句を言おうと思ったこともあったが、新家は優秀だったし、神原に危害を加えることもなかった。いくら苦手意識があっても、αSubだからと差別することも憚られた。そうこうしているうちに絆されて、表面上は普通に接することが出来るまでになった。その関係を壊したのは神原だ。新家は何も悪くない。ただ、神原のことを好きになっただけ。 「いいよ。別に隠すことでもないし、話してなかった俺も悪かった。なんかあいつがどこからともなく湧いてくる気がして」  新家から目を逸らし、天井をぼうっと見上げる。今はあまり誰かと会話をしたい気分ではなかったが、新家はそうではないらしかった。 「点滴が効いている内にこれだけは伝えさせてください。先程言ったことは僕の本心です。この関係を続けるなら、僕はその先を望むと思います。もちろん僕は神原さんを傷つけたくない。でも僕だって何のきっかけでその人のようになるかは分からない。絶対にならないと、保証はできない。だから神原さんが僕と同じ気持ちでないのなら、僕はこの会社を辞めようと思います」 「病人にそんな重大な決断を迫るなよ」 「…ごめんなさい、僕にはどうしていいかわからなくて…!」  新家の声が震える。咄嗟に頭を撫でて慰めたくなる。なってしまった。 「あーあ…なあ、聞いてくれる?」  ぱたりと頭を新家に向ける。 「…なんですか?」 「そりゃ最初にプレイしようって決めたのは使命感だったよ。でもプレイしててお前が俺に気があるのに気づかないわけないじゃん。それなのにずるずるとプレイを続けてたのはどうしてだろうな?お前が告白してきた時、ドロップしかけてたにも関わらず咄嗟に断らなかったのなんでだろうな?…俺にはよく分からないからさ、お前が決めて(S a y)?」 「…それは…僕が決めてはいけないことだと思います」 「そう。そうだよな。ありがとう(G o o d b o y)。…本当は、怖いんだ。また同じことになるのが怖い」  点滴があっても体が震えそうになるのを堪えて、また天井を見上げる。あの事件が起きた瞬間から、この恐れに向き合うことを避けていた。そうすることで自分を守ってきた。でももうそれも出来なくなった。逃げきれなくなった。ギリギリで踏みとどまっていた神原が今になってドロップしたのも、そのせいだ。 「俺、あいつがどうしてああなったかよく分かってないんだよ。これじゃないかなって心当たりはあるけど、ほんとのところは分からないんだよ。だからお前もあいつみたいにさせてしまうかもしれないって思うと怖い。それにこれからは俺はもうお前に対して『レン』として接することは出来ない。実を言うとお前の言う通り、前から時々『レン』になりきれない時があった。そんな時衝動を感じるんだ。お前を支配、いや、蹂躙したいって。今はなんとか抑え込めてるけど、いつかは俺も他のDomみたいにお前を傷つけようとするかもしれない。それも怖い。どっちもすごく怖いんだ。でもお前からはもう離れられそうにないんだよ」  再び新家の方を見る。目の前が滲んで、それなのに口の端がつり上がる。情緒がめちゃくちゃだ。たった1人のSubのことを考えるだけで。  もう逃げられない。逃がせない。好きとか愛しているとかではこの感情は表せない。あの男には感じることのなかったどす黒い執着に気づいてしまったら、もうそれを封じこめることは不可能だ。 「もう、手遅れだから。手遅れにしちゃったの俺だから。ごめん、だから、側にいて。お願い」  涙が零れるのが止まらない。新家の表情も分からない。それでも返ってきた声は、どこまでも優しかった。 「わかりました。大丈夫です。僕は、神原さんのことを信じます。その代わり、神原さんが離れようとしてもついていきますから、覚悟してください」 「うん、一緒にいて…」  安堵したら急に眠くなってきた。新家が額に口付けるのを感じながら、神原は今度こそ沈み込むように深い眠りに落ちた。

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