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2.つないだ手

   子供の頃のイディオルヌとキンダリオは仲良しで、しょっちゅうお互いの家に遊びに行っていた。子爵邸に招かれたイディオルヌは、いつものようにキンダリオに手を引かれて彼の自室に通された。高い天井に磨き込まれた床。浮彫の見事な家具。刺繍の美しいベッドカバー。たっぷり襞を取ったカーテン。豪華な部屋でもやることは普段と変わらず、二人は柔らかい毛織物の上でお菓子を食べたりゲームをしたり本を広げたりしていた。 「イディオルヌ大好き! イディも僕を好きでしょう?」 「うん。僕もリオが好きだよ」  イディオルヌは海難事故で両親を亡くしている。引き取り先の家で大事に育てられているが、拭い難い寂しさが根底にあった。キンダリオの赤裸々な愛情はイディオルヌの隙間にどんどん入り込んで、弱った心を回復する手助けとなっていた。 「イディ、大人になったら結婚しよう」 「うん、いいよ。よろしくね、リオ」  この頃のイディオルヌはまだ、結婚というものはただ同じ家に住むことだと思っていた。どっちの家で暮らすのか分からないけどそうなったら素敵だな。そう単純に考えて承諾したのだった。  キンダリオに手を引かれて立ち上がる。目の前の瞳に自分の姿が映っている。いつもは頬っぺたにされるキスが、この日は唇だった。ほんの少しの位置の違いなのに恥ずかしくて、嬉しくて顔が赤くなるのが自分でもわかる。両親や養父母も日常的にしているキス。夫婦や恋人だけがする行い。知ってはいたけどこんなに特別とは思っていなかった。 「約束のキスだよ」 「うん……」  キンダリオの頬も赤く染まっている。ずっと見詰められて、イディオルヌはどうしたらいいのかわからなくなってしまった。カーテンにくるまって顔を隠して、追いかけっこをして庭に出て、いいお天気で綺麗な花がたくさん咲いていて、大人たちも笑っていて……  過去の夢から醒めたイディオルヌは、自分が涙を流していたことに気が付いた。ここは八人部屋だ。皆眠っているようだがわからない。恥ずかしくなって、そっと部屋を抜け出した。洗面所で顔を洗う。窓から見上げた夜空は一面真っ黒で、なんの慰めにもなってくれなかった。    イディオルヌが所属する部隊は基地を出発した。幌付きトラックに詰め込まれ悪路に耐える。夜になり中継地点に到着した。半年前まで戦場だったこの街は三分の二が破壊され、復興はあまり進んでいない。出発までの七時間は自由時間になった。缶詰が配られ、みな思い思いの場所で食事を摂る。  イディオルヌは缶詰を仕舞い込み、雨露を凌げる場所を探した。昨夜はあれから眠れず、移動中もほとんど眠れなかった。手頃な場所で背嚢を枕に目を閉じる。せっかく手に入れた眠りは言い争う声で邪魔された。すぐ近くでフェルヴァーレイが七・八歳の女の子を捕まえていた。少女がイディオルヌの持ち物を漁ろうとしているところを発見したそうだ。イディオルヌはフェルヴァーレイを宥めて少女を解放させた。 「大丈夫? 怖かっただろう、ごめんね。これあげる。手を出して。ああ、怪我してるね。見せてごらん」  少女の擦りむいた掌を治療する。少女はお礼も言わずに、貰った缶詰を持ってどこかへと走っていった。 「大尉のお気に入りだからって好き勝手やりすぎじゃないか?」  衛生官の治癒術は軍の資産扱いだ。緊急性の低い民間人への無断使用は服務規定違反となる。それはイディオルヌも解っていた。年齢が全然違うし顔かたちもまったく似ていなかったけれど、妹を思い出して邪険にできなかった。 「妹いるのか。似てる?」 「いいや。僕は養子だから」  イディオルヌを引き取ったのは母の妹夫婦だった。後に誕生した従妹のフィンデリカは実父に、イディオルヌは実母に似ていて、外見から血縁と見抜かれたことはない。 「それでボーツセントゥ、君はここで何してたの?」  盗みの現場にちょうど出くわすなんてタイミングが良過ぎる。あの件以来フェルヴァーレイ・ボーツセントゥから目を付けられているのにイディオルヌは気付いていた。トラックでは向かいに座ってこちらを観察し、途中の休憩では毎回声を掛けてきた。衛生官同士だからといって馴れ合う必要はない。彼に魔具を渡したことを後悔していた。たまたま大尉と知り合いだっただけで、イディオルヌは裕福でもなんでもない庶民だ。誤解や期待をされては困る。 「お、俺は、別に……ぶらぶらしてたんだよ」 「そう。僕に用があるわけじゃないんだね。僕は眠りたいから、どこか行ってくれないか」 「いやだ」  即答されて面食らった。フェルヴァーレイ本人も思わず飛び出した言葉に驚いている。言い訳するように捲し立てた。 「あっ、ええと、見張りだ、見張り! これからもっと前線に近付くのに、装備品を盗まれたら困るだろ。それにほら、またうなされたらすぐに起こしてやるから」 「うなされてた? ごめん……」 「なんで謝るんだよ」 「だってこんな奴と同じ部隊じゃ不安だろう?」 「別に。徴兵されて、急に人殺しが仕事になって、普通でいられる奴の方がおかしい。俺だって不安はあるよ」  衛生官といえど交戦状態になったら人を殺さなければならないこともある。そうなったときに正しい対応ができるか、イディオルヌは自信がなかった。大義、正義、信念。どれを選べば正解なのか。思わず考え込むイディオルヌにフェルヴァーレイが覆い被さった。 「おい、ボーツセントゥ?」 「やっぱおまえ見てたらしたくなってきた。気持ち良くなって嫌なこと忘れようぜ」  フェルヴァーレイは首筋にキスを落としながら片手でベルトを外し、下着に手を入れた。彼の肩を掴むイディオルヌの手は、指先に力がこもっていても押し退けようとはしてこない。柔らかかったそれが芯を持ち始める過程を楽しんでいたフェルヴァーレイは、思っていたのとは違うイディオルヌの反応に動きを止めた。 「どうした?」 「別に……何も……」  身体を固くして涙ぐむ様子は何もない人間のそれではない。問いただされて、こういうことは未経験なのだと白状した。キス以上はしたことがない。恋人と呼べる人もいなかった。過去に何度か言い寄られたことはあるが交際には至らなかった。 「それならそうと言ってくれよ! 俺だって無理やりやろうなんて思ってねえから!」 「嫌なことを忘れられるなら、してみてもいいかなって……」  フェルヴァーレイは彼を、美貌を武器に強かに生きる奴だと思っていた。年齢より若く見える苦労知らず。遊び慣れてる。何人もたらしこんできた。色っぽいのはそのせいだ。しかしそれは、そうであってほしいという欲望が見せた虚像だった。  イディオルヌが人目を惹いてしまうのは生まれ持った美しさのせいだ。周りが放っておかないだけで、本人は自分をひけらかそうなどと思ったことはない。人目を避けてひっそりと過ごす様子がまた寂しげで、つい気に掛けてしまう。フェルヴァーレイはイディオルヌの手をとった。 「悪かった。何もしないから眠れ。うなされたら起こしてやる」 「手を繋いだまま?」 「ああそうだよ。安心だろ? 一等衛生官の言うことは聞いとけ」 「子供みたいだね」  笑って横になるイディオルヌを、フェルヴァーレイは複雑な表情で見下ろした。 「そこは手を振りほどくとこだろ。俺はおまえを襲おうとした男だぞ? なんで眠ろうとするんだよ……」 「別に、もうどうでもいいよ、そんなこと。おやすみボーツセントゥ」 「フェルヴァーレイだ。フェルでいい。おやすみ、イディ」 「フェルヴァーレイ、おやすみ」  フェルヴァーレイは力の抜けたイディオルヌの手を離さなかった。

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