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3.喪失

   雨模様だった空が泣き出して、とうとう土砂降りになってしまった。兵士たちを乗せたトラックは速度を落として進んだ。幌を閉め切った荷台はほとんど真っ暗になっている。エンジン音より騒々しい雨音のせいで話もできない。イディオルヌも黙って揺れに身を任せた。目を閉じると昔の出来事が蘇る。  ヌウォド夫妻は甥のイディオルヌを実の息子のように大切に育てた。いつも穏やかに微笑む養母ウェルトリアーデと彼女に尽くす養父ハイヴェルイン。夫妻の仲睦まじい様子はイディオルヌの心も和らげた。夫妻の間にはイディオルヌを引き取ってから半年後に娘のフィンデリカが生まれている。彼女の明るく活発な気質もイディオルヌの孤独を癒してくれた。  ある日、友人を訪ねるといって出掛けたきりウェルトリアーデが家に帰らなかった。今まで断りもなしに夜遅くまで家を空けるなどしたことがない。心配したハイヴェルインは方々に連絡を入れて妻を捜した。  翌朝になってもウェルトリアーデは戻らなかった。件の友人とは会う約束すらしておらず、自発的な家出の可能性が浮上した。ハイヴェルインには信じられなかった。二人の間にはなんの問題もなかった。喧嘩らしい喧嘩もしたことがない。ましてやまだ四つの娘を置いてどこへ行くというのか。もし家出だとしたらよくよくの事情があるに違いない。脅迫か、それとも何か別の。とにかく無事でいてほしい。警察へ届け出たが居ても立ってもいられず、治癒院は休業にして捜索のために奔走した。  元から居る使用人の他に、治癒院の助手とその家族が交代で家に泊まり込んで子供たちの面倒を見た。イディオルヌも捜索隊に加わりたかったが、学校を休むことは許されなかった。当時の年齢は八歳。あとから思えば当然の判断だ。  十日後、夕飯を食べ終えて自室で本を読んでいたイディオルヌは、認めたくない悪い予感が現実になっていることを知らされた。山中の崖下に、誤って、幾日か前に。そう語る父にどう返事をしたのか憶えていない。父は目に見えて衰弱した。それでも葬儀の翌日から治癒院を再開した。子供たちのためにも、そうしなければならなかったのだろう。  学校から帰って、父が仕事をしている間、イディオルヌはこっそり母の鏡台に向かった。見様見真似で白粉をはたいて紅をひく。そして鏡を見ながら母の声色を真似た。 「イディオルヌの字は姉さんに似てるわね。フィンデリカはお父さんに似て明るくていい子なの。あなた、食事の準備ができました。愛してるわみんな。大好きよ、愛してる」  双子のように似ていた実母と叔母。二人によく似ていると言われる自分を使って、イディオルヌは失った母たちに会おうとしていた。化粧をして短い髪をスカーフで隠せば、二人がそこにいるような気になれた。たびたびそうして寂しさを紛らわせた。  幾度目だったか、化粧品の消耗を不審に思った父に見つかってしまった。鏡越しに目が合ったときは心臓が止まるかと思った。初めて見る固い表情をした父がつかつかと歩み寄る。怒られる。そう思って縮こまるイディオルヌを、ハイヴェルインはきつく抱きしめた。  困惑するイディオルヌは肩が熱く湿るのを感じた。葬儀以来の、父の涙。初めて聞く嗚咽。父のように立派な大人の男の人もこんな風に泣くのだと初めて知った。いつだったか雨の日に、父がずぶ濡れで帰宅したことがあった。きっとあの日も父は泣いていたのだ。寝不足で目が赤いと笑っていた日も、急に頭が痛いと言って夕飯も摂らずに部屋にこもった日も、なんでもない日にもきっと。震える父の髪をイディオルヌの涙が濡らした。  それからは父の求めで母の振りをするようになった。化粧をして母の室内着に着替えて父の向かいに座る。イディオルヌは微笑んで、話に相槌を打つだけでよい。そうさせておきながら、ハイヴェルインはあまりイディオルヌを見ようとしなかった。日常の他愛もない話をする父は幸せそうであり哀しそうでもあった。イディオルヌが抱き付くと抱擁を返してくれる。イディオルヌを安心させる優しい温もり。父にも同じように感じてほしくて、イディオルヌはますます強くしがみついた。  目的地方面では昨日から激しい雨が続いていて、辺り一帯が冠水していた。行く手には川もあり前進は危険だ。一行は止む無く少し引き返し、野営をして水が引くのを待つことになった。 「上流の方では雨が止んでいるそうです。水が溜まりやすいが捌けるのも早い地域ですから、おそらく丸一日もあれば川を渡れるくらいには回復するかと」  ウォーレスリント大尉は報告を終えた部下を下がらせた。イディオルヌの部隊長は五年目でそれなりに有能だ。野営地は前線からはまだ遠く、命の危険はないだろう。キンダリオは机に置かれたファイルを一瞥した。開かなくても中身は暗記してしまった。  フェルヴァーレイ・ボーツセントゥ 一等衛生官 二十五歳 軍歴一年二ヶ月 中流階級 家族構成は両親、祖父、弟妹 未婚 術法学院を普通の成績で卒業 治癒士歴四年一ヶ月 賞罰なし  幼馴染に付き纏う男の経歴に当たり障りはなかった。治癒士の資格はあっても実務経験のないイディオルヌにはちょうどいいパートナーだ。側に居させたくない。キンダリオは難しい顔をして、人差し指でとんとんと机を叩いた。  十歳になってもキンダリオとイディオルヌは大の仲良しだった。イディオルヌが二人目の母を亡くした悲しみを乗り越えられたのはキンダリオによるところも大きい。自分の支えでイディオルヌが元気を取り戻していくのは、キンダリオにとってこれ以上ない喜びだった。  イディオルヌは一年程前から髪を伸ばしていて、ミディアムまで伸びた髪を耳にかける仕草にどきりとする。その感情がなんなのかキンダリオは理解していた。イディオルヌから学校の話を聞くと、どうしても学友への嫉妬が抑えられない。自分より仲良しができたらと思うと不安で仕方がなくなる。  キンダリオは来年全寮制の寄宿学校に入学することが決まっていた。今でも物足りないのに、もっと会えなくなってしまう。そうなる前にどうにかしたいのに、まだ無邪気なイディオルヌにはまったくその気がない。唇へのキスは常態化させた。だがその先へどう進めばいいのかわからない。どうやって彼に触れよう。そればかり考えるようになった。  次にヌウォド家に遊びに行ったとき、キンダリオは手土産にプラムを持参した。それを手ずからイディオルヌに食べさせる。 「あーんして」  素直に口を開けるイディオルヌが実に可愛らしい。ここからが肝心だ。果汁が零れるように、わざと口元で果実を圧し潰す。慌てて上に向けた顔から垂れた果汁が、無防備に晒された喉を伝って落ちていく。キンダリオはそれを唇で追いかける。作戦成功だ! 「あっ、やめてよリオ、くすぐったい」 「待ってイディ、我慢して」 シャツが染みになるからと言ってじっとさせて、ボタンを一つ二つと外していく。もうない果汁をちゅっちゅと吸い取る振りをした。匂い、脈拍、汗、筋肉、鎖骨。イディオルヌを全力で感じ取る。 「んふっ、あはは! もうっ、だめだってば! リオ! あははは!」  あまりに無垢な反応にキンダリオの戦意は喪失してしまった。イディオルヌにはまだ早かったようだ。無理強いして嫌われたくない。しばらくの間は普通のキスで我慢することにした。この日のことは後に甘く、そして苦い思い出として忘れられないものとなる。  数日後、いつものように治癒院の裏に回って通用口の呼び鈴を鳴らしたが、イディオルヌには会えなかった。何度訪ねても使用人が出てきて留守だという。居留守だ。ときおりカーテンの向こうからこちらを窺うような人影が見えた。 「イディオルヌ! 顔を見せて! ちゃんと説明してよ!」 「キンダリオ様、これ以上は騒ぎになります。お控えください」 「いやだっ、イディ!!」  治癒院から中に入ろうとしたところを侍従に取り押さえられ、屋敷に連れ戻された。手紙を書いても返事はない。頭が痛くなるほど泣いて、後悔と悲しみと寂しさだけを残して抜け殻のようになった。その状態のまま学校の寮に入り、長期休暇も家に帰らなかった。何に対しても無気力無関心無感動に過ごした。生きる意味がわからなかった。  三年目にようやく気持ちが前を向くようになった。人から尊敬される立派な軍人になる。イディオルヌに語った将来の夢を嘘にしたくない。そこからは自分を厳しく律した。成績は常に上位をキープするようになり、大勢の仲間もできた。  卒業まで帰省しないつもりだったのだが、そうもいかなくなった。親が勝手に見合いの話を進めていた。順調にいけば在学中に婚約、入隊前に結婚となる。キンダリオは悩んだ末にヌウォド家を訪れた。震える指で呼び鈴を鳴らす。六年前のあの日の記憶が蘇って動悸が酷い。ドアを開けたのは十二歳になったフィンデリカだった。

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