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4.選択

   設営から数時間で雨は上がった。雲の隙間から星が見える。イディオルヌは携帯灯を持って一人で林に入った。用を足している途中、背後から忍び寄った男の腕が首に回される。 「ひっ!? な、やめ……っ」 「ははっ、かわいー。あ、おしっこ終わった? じゃあ白いおしっこもしちゃおうか。出したら俺のを咥えろよ」  同じ部隊のジラハイト一等兵だ。イディオルヌは急所を握られてろくな抵抗ができない。それがジラハイトには媚態ととられた。戻りが遅いイディオルヌを心配したフェルヴァーレイは、股間を扱かれて身を捩るイディオルヌを発見した。 「おい、やめろ。蛇が出るぞ」 「ああ? こいつのことか?」  ジラハイトはイディオルヌのそれを、フェルヴァーレイに向かってぶらぶらと振って見せた。イディオルヌは激しい羞恥に必死に耐えている。フェルヴァーレイは痴態には触れずに話を続けた。 「雨上がりは蛙を狙って蛇が出やすいんだよ。枝から落ちてくることもある。水から逃げてきたやつもいるだろうから、いつもより多いかもな。噛まれる前に大事な所は隠しとけ」  ちょうど近くの草むらに何かがばさりと落ちた。ジラハイトが舌打ちをして林から出て行く。フェルヴァーレイは服を直すイディオルヌを携帯灯で照らした。 「どういうつもりだイディ。あいつが好きなのか?」 「まさか。君が言うように、気持ち良くなって嫌な事を忘れたかっただけだ」 「泣きそうだったくせに。おまえはそういう人間じゃない。そんな事しても忘れたい思い出が増えるだけだ。誰彼かまわず触らせるな」  同じような事をしておいていったいどの口が言うのかとイディオルヌは苛立った。だいたい、こうなった原因はフェルヴァーレイだ。フェルヴァーレイが付き纏って構うから出会って数日の男と寝るような奴だと誤解され、だったら俺もとジラハイトはあのような行動に及んだのだ。 「そ、そうなのか?」 「彼は君より気持ち良くしてくれるってさ」  自棄気味に言い捨ててテントに戻ろうとするが、腕を掴まれ足を止められた。 「すまなかった。今度誰かに誘われたら俺に夢中だって言っておけ。いいか、俺以外考えられないって言うんだぞ」 「は? はははっ……本気か?」 「責任は取る。俺が守る」  フェルヴァーレイは大真面目な顔をしている。一連の出来事で冷静でないところに追い打ちをかけられて、イディオルヌは混乱してしまった。まごまごしていたら自分のテントまで引っ張って行かれ休まされた。なかなか整理がつかずぼんやり過ごしていると、少し離れた場所で喧嘩が始まった。フェルヴァーレイがジラハイトを殴ったらしい。関わり合いになりたくなくて、背を向けて寝たふりをした。  喧嘩の発端はジラハイトの軽い冗談だった。イディオルヌが喜んでたとか好き者だとか。フェルヴァーレイも仲間と交流を深めるために明け透けで下品な冗談を言うタイプの人間で、ジラハイトとは気が合う方だった。いつもと同じ調子で悪気なく冗談を言ったらいきなり殴りかかられて、ジラハイトにとってはとんだ災難だ。  被害が当事者の顔面だけだったので、制裁は部隊長からの口頭注意だけで済んだ。ジラハイトは治癒術を施されて放免となった。残されたフェルヴァーレイは、おそらく衛生官としての心得を問われるのだろうと予想した。しかし部隊長から出た言葉はまったく異なるものだった。 「ボーツセントゥ、おまえが責任もってヌウォドを囲っておけ。あいつは不吉だ。ああいう奴が不運を呼ぶのを俺は見てきた。他の奴と関わらせるな。わかったら下がって、顔の治療をしてもらえ」  こっちはこっちでずいぶんな言い様だ。イディオルヌを疫病神扱い。人身御供になれと言われたようで気分が良くない。関わるなと言われるよりはマシか。イディオルヌのところに行く前に鏡で顔を確認した。はっきり憶えていないが数発は喰らっている。そろそろ腫れてくる頃だが、なんの形跡も見当たらない。そこでハッとして、貰った防御魔具をポケットから出した。  防御魔具は通常、着用者が生命の危機を感じたときに発動する。フェルヴァーレイはそんなものは感じていない。使用限度に比例して変化する術法図の色に変化はなく、まるで未使用だ。裏を返せば、殴られると思っただけで発動するくらい緩めの設定で、あの程度では目減りしない莫大な魔術が込められているということになる。  イディオルヌはテントで腰を下ろして項垂れていた。目の前までフェルヴァーレイが近付いても顔を上げようともしない。 「イディオルヌ。俺のこともそうだが、なんで断らない。あんな思いまでして忘れたい事ってなんだ。……いつか話したくなったら言ってくれ。おまえを守るのは俺だ。部隊長公認になったからな」  驚いて顔を上げたイディオルヌは、放り投げられた物を反射的に捕まえた。 「返す。俺が持ってていいもんじゃない」  防御魔具から視線を上げると、フェルヴァーレイはもう背中を向けて遠ざかっていた。イディオルヌの顔はまた下を向く。片付き始めた頭の中がまたひっくり返された。何も考えたくないのにつらい思い出が蘇る。過去からは誰も守ってくれない。  妹のフィンデリカは活発で明るい少女に育った。ヌウォド家の治癒魔術の才をしっかり受け継いでいる。人の世話を焼くのが好きな彼女なら優秀な治癒士になるだろうと期待されていた。そんな妹にパフェが食べたいとねだられて、イディオルヌはとあるカフェへ連れて行かれた。高級そうな店構えに入店を躊躇う。 「本当にここ?」 「大丈夫だから入るよ、兄さん!」  フィンデリカが先に行ってしまった。勝手に予約までしていたようで、名を告げられた店員は二人に歓迎の意を示した。ここまで来たら観念して、案内する店員の後に続く。通された席には先客がいた。上等な仕立ての服を着た、長身で逞しい青年。彼はイディオルヌを見ると立ち上がり、泣きそうに微笑みかけた。 「イディ」 「リオ……?」 「ごめんね兄さん。仲直りしたいって頼まれたの。ちゃんと話し合ってね」  友達と待ち合わせをしているからと、フィンデリカは出て行ってしまった。 「許してくれイディオルヌ。卑怯な手を使ってでも君と話がしたかった。昔のことを謝りたい。どうかチャンスをくれ」 「やめてよ。リオは何も悪くない」 「じゃあどうして。僕はずっと苦しかった。イディに会えなくて、空っぽで。死にたくなるほどつらかったんだ」 「ごめんリオ。本当にごめん……」 「僕こそすまなかった。こんな事が言いたかったんじゃないんだ」  とりあえず座って飲み物を注文した。お互いに昂った気持ちを落ち着ける。 「さっきは責めるようなことを言ってすまなかった。また会えて、こうして話ができて嬉しい。僕と会うのをやめた理由を教えてもらえないか。ひょっとしてヌウォド氏に何か言われた?」  イディオルヌは否定しなかった。たまに会うハイヴェルインは礼儀正しい男だったが、キンダリオは彼にどことなく居心地の悪さを感じていた。イディオルヌに向ける劣情を見抜かれていたのだとしたら納得できる。時期から推測して、プラムジュースを味わう場面を目撃された。絶交はかわいい息子が貴族のぼんぼんに弄ばれるのを危惧しての措置だろう。欲望のまま行動した愚かな自分に、キンダリオは数万回目の後悔をした。 「やっぱり僕は君が好きだ。愛してる。イディは僕をどう思ってる? 正直に話してほしい」 「僕もリオが好きだよ」 「じゃあ僕と一緒に来てくれないか」  キンダリオは見合いの話をした。もしイディオルヌとの未来があるなら縁談はきっぱり断る。家族と決別する覚悟もある。 「だめだよ、そんなの。家族を大事にして。僕は家を出て行けない。父さんは僕がいないとだめなんだ」 「いつまでも今のままではいられない。イディも十六なら将来のことを考えるべきだ。結婚しようって約束したじゃないか。あのときから僕は本気だ。僕だってイディが必要なんだ」  プラムを食べさせられた日の夜。父の私室を訪れたイディオルヌはキンダリオとの関係を問われた。質問の意味がわからなかった。キンダリオのことは父もよく知っているはずだ。仲のいい幼馴染。大好きな友達。それ以上でも以下でもない。 「そう思ってるのはイディオルヌだけだ。彼はおまえと結婚したいと思っているよ」 「えっ……」  イディオルヌも昔交わした約束は憶えている。しかし十歳のイディオルヌは、結婚や恋愛は大人の男女間のものだと思っていた。まだ十一歳で同性のキンダリオの好きは、友情のとても強いものなのだと信じていた。 「もう妻の真似はするな。ここにも来なくていい」 「お父さん」 「その顔で話しかけるな! また私に間違いを犯させる気か! また裏切るのか! もう私を苦しめないでくれ……!!」 「ごめんなさいお父さん。悲しくさせてごめんなさい。僕はお父さんが好き。僕を嫌いにならないで」  背中を向ける父に縋り付く。父がなぜ錯乱したのか。キンダリオが関係しているということしかイディオルヌにはわからなかった。だから彼と会うのを止めると約束した。それはイディオルヌにとってつらい選択だった。しかし実の両親と養母を亡くした十歳の少年は、養父まで失う恐怖に耐えられなかった。キンダリオを遠ざけたことでハイヴェルインの精神は徐々に落ち着きを取り戻していった。  イディオルヌはずっと父が口走った言葉が気になっていた。その意味を知ったのは十五歳になってからだった。なぜそうしようと思ったのかわからない。書斎の机の抽斗を引いてみると、いつもはかかっているはずの鍵が開いていた。わけのわからない衝動に駆られて抽斗を漁ると底から手紙が出てきた。ウェルトリアーデからハイヴェルインへ。震える手で広げられたそれには、当時は知らされなかった養母の死の真相が書き記されていた。  ウェルトリアーデにはベラードという幼馴染がいた。裕福な商家の次女と下層階級出身の日雇い労働者の恋を、彼女の両親は決して認めなかった。金の力でベラードを遠方に送り、彼の存在を隠したまま娘を結婚させた。ところがベラードが舞い戻ったことにより恋が再燃してしまう。二人は駆け落ちし、短い蜜月を経て心中した。遺書にはベラードへの愛、結婚への後悔が綴られており、『本当に愛する人の隣で眠らせてください』と締め括られていた。最後まで落ち着いた筆跡だった。  親の決めた結婚だったとは思えないくらい、ハイヴェルインは妻を大切にしていた。現場に駆け付けた彼は、死して寄り添う二人を見て何を思っただろう。妻からの最後の手紙をどんな思いで読んだのだろう。愛する二人を引き裂き、自らも引き裂かれ。 『愛してるわ』  おやすみのキスのあとでいつも言われていた大切な言葉。母の声色を真似るとき当たり前のように言っていた台詞。ウェルトリアーデからハイヴェルインに愛してると言ったことがあっただろうか。ハイヴェルインに愛していると言われると、彼女は少し困ったように微笑んで「私もよ」と返すだけだった。当時は何も疑問に思わなかった。叔母は大人しくて控えめな人だったから。あんな激情を内に秘めているなんて思いもよらなかった。イディオルヌは落とした涙を拭いて手紙を元に戻した。  幼馴染より自分を選んだイディオルヌを、ハイヴェルインは以前より愛でるようになっていた。女装した甥を膝に乗せたり膝枕をしたりするのがどんなに異常なことか、さすがにもうイディオルヌも理解している。誰にも言えない二人だけの秘密。後ろ暗い癒しの時間。自分が母の振りをしなかったら、もっと時間はかかっても父は普通に立ち直れていたかもしれない。彼を狂わせたのは自分だ。自分はもっと狂ってる。ハイヴェルインに縋られると嬉しい。可哀想なハイヴェルイン。キンダリオを選んだら、きっと彼はどうにかなってしまう。 「好きだよリオ。今でも大好き。でも父には僕が必要なんだ。だからごめんね、リオ……」  本当の理由は秘密にしたまま、イディオルヌは幼馴染を残してカフェを出て行った。

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