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5.月光
ようやく水が引いて移動が再開された。道に落ちた流木などをどかしながらで、本来の予定では昨日素通りするはずだった高原に差し掛かったのは日が傾き始めた頃だった。ここに古くから建つ僧院は、立地の関係から軍関係者が立ち寄ることがたびたびある。最低限の生活を営む僧院からもてなしはない。それでも水浴びをして、洗濯をして、屋根の下で眠れる。兵士たちにとっては充分ありがたかった。
僧籍にあっても徴兵は免れない。ここに残っている僧は年寄や、検査で不合格になったものばかりだった。ヴィエトロネという男は開戦から二年後に徴兵され、怪我のため一年で僧院に出戻っている。後遺症で左足の踏ん張りが利かず、少し不自由な日常生活を送っていた。
「すみません、少しよろしいでしょうか」
廊下を歩くヴィエトロネを呼び止めたのはまだ装備が小奇麗な新兵で、衛生官の徽章をしていた。他に人がいないのを見計らって声量を落としてきたことから、ヴィエトロネは治療の申し出であるとすぐにピンときた。治癒士として放っておけないらしく、こういう衛生官は初めてではない。後遺症に治癒術をかけても一時的に症状が軽くなるに過ぎないのだが、ヴィエトロネには嬉しい申し出だ。イディオルヌに肩を借りて、二人は服務規程を破れる場所へと向かった。
その様子は、欲で濁ったフェルヴァーレイにはいかがわしく見えた。くっついて内緒話をして、今度は肩を抱いて。気になって後をつけてみれば、こそこそと人目を避けてどんどん人気のない方へ行く。部屋に入られる前に声をかけそびれたことを後悔した。フェルヴァーレイは悩んだ。連れ込まれたなら問答無用で踏み込むが、今回はイディオルヌから誘っている。守るだなんだと一方的に啖呵を切っただけで、二人は恋人でもなんでもない。今踏み込んだらただの邪魔な勘違い野郎にならないか?
自問自答を繰り返しているとヴィエトロネが部屋から出てきた。少し待って部屋を出ようとしていたイディオルヌは、突然現れたフェルヴァーレイに驚かされた。
「またやったのか」
さっきのヴィエトロネの足取りの軽さ。ここでまた勝手に治療を施したのは明白だった。
「許可なく魔術を使うな。衛生官が必要とされるのは、いつ誰が死んでもおかしくない状況のときだ。静かで整えられた環境じゃない。同じ治癒術でもいつもより魔力を使う。軽く考えるな。温存しておけ。もっと自分のことを考えろ。それが皆の命を救うことにもなる」
「その通りだ。僕が間違ってた」
イディオルヌは力なく机に腰かけた。これくらい、そう軽く考えて魔術を使った。より前線に近付いた今、やっていい事ではなかった。
フェルヴァーレイは落ち込むイディオルヌを抱き寄せてキスしてもいいかと尋ねた。イディオルヌは何を急にと一瞬驚いたが、そういえばこの男はいつも唐突で明け透けだったと思い出した。
「キスでは許可を求めるんだね」
「あー、そうだな、悪かったよ。反省してる」
フェルヴァーレイは苦笑するイディオルヌの顔を向かせて唇を合わせた。
「好きだ、イディオルヌ」
イディオルヌは目を閉じて動こうとしない。もう一度唇を合わせる。下がっていたイディオルヌの手が上がり、フェルヴァーレイの腰に触れた。誘っているのか拒んでいるのか、フェルヴァーレイは判断がつきかねた。自分勝手な欲望は溜息に変えて吐き捨てて、フェルヴァーレイはもう一度イディオルヌを抱きしめた。
次の移動開始まで残り三時間となった。深夜に差し掛かる時間帯で多くの兵士は眠っている。フェルヴァーレイの視線の先には、禱祠 堂の二階から十六夜の月光に縁どられた山の稜線を眺めるイディオルヌがいた。
「山、好きなのか?」
「全然」
叔母は山で亡くなった。両親を奪った海原も、愛する人の顔を白く染めていた月も、イディオルヌには美しい自然の風景である以上に死を彷彿とさせるものとなってしまった。
「きれいだな」
フェルヴァーレイの指が頬を撫でる。イディオルヌも自分の容姿が好きだった。誰かに褒められると、母が褒められているようで嬉しかった。遺書を読んでからは鏡を見るのが好きじゃない。あれにはフィンデリカのことも書いてあった。ハイヴェルインに似ていて可愛くない、嘘の娘だと。イディオルヌにしてみればウェルトリアーデこそ欺瞞と災厄の象徴だ。見合いの時点で叔母が正直に事情を打ち明けていれば、ハイヴェルインは彼女を娶ろうとはしなかっただろう。偽りの結婚は誰も幸せにしなかった。フィンデリカになんの罪があるというのか。むしろ彼女は父親似で幸いだった。
フェルヴァーレイの直截な愛情表現は子供の頃のキンダリオのようで、イディオルヌを懐かしい気持ちにさせる。優しく見詰める彼に、イディオルヌも微笑みを返した。
カフェを立ち去る際の、今でも好きだというイディオルヌの言葉。幼かったあの頃と意味が変わっていないであろうことをキンダリオは認めたくなかった。諦めきれずに再度接触を試みる。治癒魔術の専門学校へ通っていることをフィンデリカから聞いていたので、そこで待ち伏せた。なりふり構っていられない。二時間ほど待って、数人の友人と談笑しながら校門を出てくる幼馴染の前に立ち塞がった。
「え、なんで、リオ、どうして」
「来てくれイディ。話がしたい」
「やめろよ!」
困っているイディオルヌを助けようと友人が割って入った。キンダリオは彼のイディオルヌを見る目つきが気に入らなかった。純粋な友情ではない。自分もそうだから判る。キンダリオの怒気に友人が怯んだ隙に、イディオルヌをその場から連れ去った。
「リオ」
呼び掛けを無視してずんずんと歩いた。ちょうど通りかかった乗合馬車に引っ張り込む。諦めたのか、イディオルヌは大人しく肩を抱かれている。二区画目の公園で下車した。
「リオ、どこまで行くの? 話があるんじゃないの?」
繋いでいた手を引っ張られて、キンダリオはようやく足を止めて重たい口を開いた。
「僕とのこと、もう一度考え直してくれないか。愛してる。二人で暮らそう。イディが自立したらヌウォドさんだって喜ぶはずだ。僕らのこと、きっと応援してくれるよ」
「僕は父を見捨てられない。傍にいて支えてあげなくちゃ」
「もし養子なのを負い目に感じてるんだとしたら」
「そんなのじゃない。僕はハイヴェルインを愛してる」
「本気か!? 血が繋がってなくても彼は君の……」
「わかってる」
「わかってない! 君は騙されてるんだ。あいつに何をされた? 子供に手を出すなんて異常者め!」
「リオ、彼を悪く言わないで。僕が始めたことだ。おかしいのは僕だよ。わかってるけど、でももう変えられない。リオとは友達以上にはなれない」
失意のキンダリオは重い脚を引きずって一人寮に帰った。誰かに相談することも考えたが、あのような醜聞が世間に知れたらヌウォド家の評判は地に落ちる。治癒院閉鎖も有り得る。イディオルヌはヌウォドを庇って自分を悪者にするだろう。イディオルヌをつらい目に合わせるくらいなら死んだ方がましだ。
彼の性格から考えて簡単に心変わりすることはないだろう。ヌウォドも生半可な気持ちで家族に手を出すような真似はすまい。イディオルヌが一人になるのはいつだ。死が二人を分かつまで? ヌウォドはまだ四十にもなってない。二十年後か、三十年後か。それまで孤独に耐えて待ち続けられるか。無理だ。とてもじゃないが正気を保っていられない。
見合い相手は親の友人の娘だった。両家の親たちは元々この結婚を望んでいたし、当人もキンダリオを気に入っていた。ハイヴェルイン・ヌウォドの訃報を聞いたのは結婚後一年が過ぎてからだった。このときほど後悔したことはない。あと少し待っていれば彼を手に入れられたかも知れない。隣にいて慰めてあげたかった。だが既に戦地におり会いに行くことは叶わない。どんなに悔やんでも、妻がいるという事実は覆らない。お腹には子供もいた。忘れろ、諦めろと自分に言い聞かせた。
キンダリオは宿舎の窓から夜空を見上げた。月が美しく穏やかに世界を照らしている。同じ基地に来ると聞いたときから気も漫ろで、実際に顔を見たら封印していた気持ちがいとも簡単に溢れ出た。寝ても覚めてもイディオルヌのことばかり考えている。やはり忘れるなどできない。そう痛感した。
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