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6.血だまり
公立治癒院の一室で、フィンデリカは終戦のニュースを他人事のように聞いた。世界が変わっても容体は変わらない。未来に希望などない。彼女はずっと過去を振り返っていた。
母のことはあまり記憶に残っていない。何を考えているのかわからなくて、よく構ってくれる兄の方が好きだった。母が死んだときは自分もつらかっただろうに、兄はずいぶん気遣ってくれた。そのときに初めて兄が両親を亡くしていたと知った。イディオルヌが実の兄でないことより、そんなにつらい思いをしても人に優しくいられることに幼いながらも胸を打たれたのを憶えている。
父は朗らかで社交的な性格だった。ピクニックに連れて行ってくれたり、冗談を言って笑わせてくれることもあった。しかし母の死後は口数の少ないあまり笑わない人になってしまった。もとの明るい性格を取り戻すことはなかったが、家族や患者のために一生懸命働いてくれた。
父は兄をかわいがっていた。衣類、小物、本等々フィンデリカが何か買ってもらうときはいつも兄のついで。兄は控えめで頑張り屋さんで応援したくなる。人を疑わないところが危なっかしくて放っておけない。フィンデリカもそんなイディオルヌが大好きだから父の気持ちは解る。父に愚痴を零したこともあったが、本気で不満に思っていたわけではない。
悲劇が訪れたのはとある春の日の夜だった。食欲がないと言ってほとんど食事を摂らなかった父が心配になり、フィンデリカは寝る前に様子を見に行った。書斎のドアを開けると、父が虚ろな目をして椅子にもたれていた。青白い顔と対照的な血の海が机や床に広がっている。フィンデリカはとっさに覚えたばかりの治癒魔術を発動させ、暴走させてしまった。
治癒の魔術は術者の生命力を消費する。適度に使用していれば健康にはなんの問題もないが、過度になると術者の寿命を縮める。フィンデリカの場合、既に事切れている相手に際限なく魔術を使ったため大量の生命力が失われてしまった。兄が発見して途中で止めなかったらその場で死んでいてもおかしくない。入院先の担当治癒士からそう説明された。
「フィンデリカ……よかった、ほんとに……」
見舞いに来た兄はそれ以上何も言えなくなり、フィンデリカの手を握って涙を流した。二度目の親も両方とも亡くしてしまった兄。妹まで死んだら天涯孤独だ。目が覚めるまで一月以上の間、どれだけ不安な思いをさせただろう。父のことも全て任せっきりにして、申し訳なく思った。
いつも泣きはらした顔をしている兄を一人にさせておくのが嫌で、退院が決まったときはほっとした。兄と家に帰る。恐怖や嫌悪はない。何が起ころうとこの家も父も人生の一部だ。イディオルヌも同じ考えで、家を手放す気はなかった。
父の葬儀はとっくに済んでいる。書斎は後始末がされていたけれど、目を凝らすと血痕のような染みが見えた。最期の光景が鮮明に蘇る。自殺だったそうだ。あのときはパニックになって、そんなことまで気が回らなかった。兄が見せてくれた紙には父の筆跡で「すまない 愛してる」とだけ書かれていた。
理由はわからない。仕事に問題なく借金もなかった。母の死からは十年が経過しているが関係あるのだろうか。他に人知れぬ悩みがあったのか。どこかへ逃げるという選択はなかったのか。子供を置いて行った父に苛立ち、何もできなかった自分に怒りを覚えた。
フィンデリカはほぼ寝たきりとなった。治療法はなく、回復の見込みもない。症例が少ないのではっきり言えないが、長くは生きられないだろうとのこと。魔術も使えなくなってしまったので治癒士の資格取得は諦めざるを得ず、継ぐ予定だったヌウォド治癒院は看板を下ろすことになった。イディオルヌは当初の予定通り魔具職人となって自宅に工房を構え、妹の世話と仕事を両立させた。
唯一衰えなかった思考は過去に囚われて自由にならない。後悔の波に揺られて毎日「なぜ」と問う。幸せだった頃の記憶を呼び戻して不幸の糸口を探す。どんなに有り得なさそうな「もしも」でも頭の中で再現して、あの悲劇に至る筋道か否か検証する。何度も何度も。来る日も来る日も。
イディオルヌが復員したのは終戦から二ヶ月後のことだった。すぐに戻らなかったのは治癒士として奉仕活動をしていたから。帰国後どこにも寄らずフィンデリカを訪ねた。薄汚れた軍服が板についた兄を見て、存外立派に軍人をしていたらしいとフィンデリカは感心した。
「ふふっ、本当に入隊してたのね。嘘みたい」
「ひどいなあ。これでも一等衛生官に出世したんだから」
二人はよく冗談を言い合う。日常の上っ面を被せれば、尽きることのない喪失感と無力感が少しはましになった。イディオルヌが一旦先に一人で帰宅し、半年留守にした家を掃除した。書斎のドアは開けられなかった。兄に連れられて帰宅したフィンデリカは、半日の移動で疲れて熱を出した。粥は半分しか食べられなかった。
「兄さん、私、兄さんが帰ってくると思ってなかった。私なんか捨てて、そのままどこかに行くんだと思ってた。そのために徴兵に応じたんだって」
「ばかだなフィンデリカ。そんな事しないよ」
最初に徴兵に前向きな意見を出したのはフィンデリカだ。戦場で死ぬ者を一人でも減らすために。悲しむ人が少しでも少なく済むようにと。そしてイディオルヌは入隊した。妹がくれた建前は日を追うごとに褪せて、本心が露呈していく。逃げたい。でも、どこへ行こうと無駄だ。過去からは逃げられない。いつまでも付きまとって昨日のことのように蘇る。妹に気を遣わせて不安がらせて、愚かな自分にまた嫌気が差した。
「あのね兄さん、ほら、私って暇でしょ? だからね、ずっと考え事ばっかりしてて、それで、おぼろげだけど思い出したの。あの日兄さんは血塗れの父さんを抱いて名前を呼んでた。泣きながらハイヴェルインって。恋人を亡くしたみたいに」
熱に浮かされたと思って聞いていたイディオルヌは凍りついた。父への想い、それに父と二人でしていたことはフィンデリカには一生隠しておくつもりだった。
「父さんとの間になにがあったの」
「なにも、ない。僕たちはただ二人で、僕たちはただ、二人で」
動揺のあまり震える兄を見て、フィンデリカは長かった検証の終わりを悟った。
「私が父さんを死なせたのかも知れない」
「な……に……?」
「いつだったか父さんに、兄さんを特別扱いしないでって言ったことがあるの。そのときは知らなくて、兄さんが大事にされてるから少し焼きもちを焼いただけで、深い意味なんてなくて……でも父さんは怖い顔してた。兄さんたちはどうかしてる。でも死んでほしいとまでは思ってない……!!」
「泣かないで。フィンデリカは、なにも悪くないよ。まだ熱があるんだから寝なさい」
イディオルヌは逃げるように部屋を出た。立っていられなくなって廊下にうずくまる。
「ハイヴェルイン」
名を呼ぶと微笑んでくれる。愛おしい気持ちを伝えたくてキスをした。膝に乗せられるようになってしばらくしてから始めた習慣。ハイヴェルインの傷が少しでも癒されるように、心を込めて唇を合わせる。イディオルヌは十四歳になっていた。この頃には基本的な性の知識が身について、幼馴染が自分に何をしようとしていたのか理解していた。自分が今何をしているのかも。無邪気だったキスには熱がこもるようになった。実父とハイヴェルインはまったく似ていない。年齢もずっと若い。いつから彼を父ではなく一人の男として意識し始めたのか。気付けばそうなっていた。
「イディオルヌ」
ハイヴェルインはその日初めて化粧をしてドレスを着た少年の名を呼んだ。息子であり妻であり、そのどちらでもない曖昧な存在がイディオルヌとなった瞬間だった。ハイヴェルインが優しい目で自分を見ている。代役ではない、実在するイディオルヌを。愛されてると実感できた。
時々ではあるが二人で眠ることもあった。ただ腕に抱えられて横になってキスをして目を閉じる。それ以上の行為があることも知っていたが、ハイヴェルインはそれを求めてはこなかった。イディオルヌもハイヴェルインの温もりを感じていられれば、それで満足だった。
イディオルヌはハイヴェルインの自死の理由がわからなかった。自分に触れるハイヴェルインは幸せそうに見えた。あれだけでは埋められない空虚に支配されてしまったのか。この身を差し出してでも彼を繋ぎとめておけばよかったと、何度後悔したことか。
フィンデリカの告白で、自分の思いがとんでもなく的外れだったと気付かされた。彼は娘に秘密を知られたと勘違いして、背徳の罪の重さに耐え切れなくなって死んだに違いない。罪を犯させたのは、彼を堕としたのは自分なのに。誰にも悟らせずに死を決断して、実行してしまった。彼と苦しみから抜け出したくてしていたことなのに余計に苦しめた。名前を呼んで笑っていたかっただけなのに孤独にさせた。愛すれば愛するほど大きくなる代償に目を向けられなかった。あのような結末に追いやったのは他でもない自分だ。
ヌウォド家に引き取られたばかりの頃イディオルヌは孤独だった。世界は壁に掛かった絵のように、ただそこにあるだけだった。母に似た叔母が大きな癒しになっていたのは否定できない。本心を知るまでは大好きだった叔母。少なくともイディオルヌにくれた愛情は本物だった。なぜ実の娘にもそれを向けられなかったのか。叔母を不幸にしたのは自分自身だ。なのになぜハイヴェルインを苦しめたのか。
生まれてきた妹はかわいかった。自分のような置いていかれた子供と違って、全部持っていて輝いて見えた。母親を亡くしても彼女は明るく真っ直ぐに育った。意図的な部分もあったと思う。フィンデリカの笑顔が好きだ。父に似ていて泣きたくなる。
「おはようフィンデリカ。熱は下がったね。起きれる?」
自分を棚上げして心配する兄の目を、フィンデリカはまともに見れなかった。彼女の生活は倒れてから六年経った今日まで代り映えしない。やりたかった事は全部諦めて、時間が過ぎていくだけの毎日。父のためにした事で後悔はない。でも自死を選ばせたのが自分なのだとしたら、生きていく意味が見出せなくなってしまった。
「兄さん、私疲れた。もう終わりにしたい」
抑揚のない声だった。イディオルヌも淡々と受け止める。
「そう。話してくれてありがとう。僕もちょうど同じことを考えていたんだ」
イディオルヌとフィンデリカは目一杯おしゃれをして出掛けた。美術館に行って、劇場に行って、本屋に行って、カフェでケーキを食べて。偶然出くわした友達に手を振る。夜には花火を見上げた。
みんなでピクニックした丘に登って草の上に寝っ転がる。日差しがあったかくて、風が心地良い。母さんたちが作ってくれたサンドイッチを頬張る。父さんたちもいる。
静かな湖面に波紋を広げて水鳥が飛び立つ。立ち尽くしていると誰かが手を繋いでくれた。一人じゃないから、もう怖くない。
さあ、そろそろ家に帰ろう
みんなが待ってる
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