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第32話 ひよっ子、誘う
32 ひよっ子、誘う
レックスのしっかりした親指が、ヤンの薄い唇をなぞる。彼は表情こそいつもと変わらないけれど、金色の瞳には確かに熱がこもっていた。
もしかして、キスをしたいのだろうか、とヤンは身体を伸ばす。形のいい彼の唇に吸い付くと、そっと身体を離された。
「お前の怪我が治ってからにする」
そう言われて、ヤンは無意識にレックスを今までの客と同じ扱いをしていたことに気が付く。羞恥心で顔が熱くなり、好きなひとを特別だと思いながら、その他大勢と変わらない態度を取った自分に落ち込んだ。
「す、すみません……」
こんなことを積極的にやるなど、騎士として問題だろう。自分の立場を忘れたことに、いたたまれなくなった。これでは騎士の自覚がないと言われても、仕方がない。
「……いや。俺も自制が利く方だと思っていたがな」
そう言って、レックスはヤンから離れた。自分の半身が剥がれたような寂しさと不安に襲われたが、レックスはちゃんとヤンを見ていてくれている。
大丈夫だ、とその目は言っているような気がして、ヤンはまた鼻がツンとした。初めは怖いと思った真っ直ぐな視線が、こんなにも心強いとは思わなかった。そして、絶対的な安心感を得られることが、何にも変え難いほど嬉しいとも思わなかった。
「ヤン」
もう一度だけ。彼はそう言って、ヤンの唇を優しく啄んだ。
◇◇
それから怪我が治るまで、ヤンはレックスに世話をされる羽目になった。両手が使えないからと水浴びや食事の手伝いをされ、そしてなぜか就寝時まで一緒に寝るようになったのだ。両手が使えないのは、レックスが大袈裟に包帯を巻いているからで、指が動かすことができれば自分でできる、とヤンは主張したが、綺麗に流された。
そしてその間に、ナイルの処分も決行された。最期に言い残すことはと聞かれて、ヤンへの想いを長々と語ったらしいというのは聞いたけれど、詳しい話はレックスはもちろん、アンセルもハリアも言わなかった。それが自分への配慮だったと考えると、ありがたいとは思ったけれど、気を遣わせてしまったな、という気持ちの方が大きい。
上司はレックスなのに、お互い想いを伝えてからは、何だか立場が逆転しているような気がする。以前はあれだけ賑やかに寄ってきたほかの従騎士や騎士たちも、遠巻きに見るようになって苦笑した。
「ヤンが本当に強いんだと、皆 が気付いたんだ」
「……レックス様とハリア様が睨みをきかせているからだと思いますけど……」
就寝時、ベッドに二人で潜り込みながらレックスはそんなことを言う。部屋の外では今まで通り、ヤンがレックスのサポートをしている風に見せてはいるけれど、ひとたび私室に入れば、彼は甘い雰囲気をすぐに出そうとする。
今もヤンを抱きしめてきて、ヤンは安心するやらドキドキするやらで落ち着かない。寝台近くのロウソクが、また柔らかく甘い雰囲気を増幅させていた。
「……おい、いい加減慣れないのか」
「だ、だって……」
レックスはさすが騎士団長を務めるだけあって、体格がいい。そんな大男が以前は大きなクマのぬいぐるみを抱いて寝ていたと言うから、笑えてしまう。しかし、素直に笑えないのは、代わりにヤンを抱きしめて眠るようになってしまったからだ。
「あ、あの……ホントに、……何もしなくていいんですか?」
ヤンはベッドの上で何度か聞いた質問をする。告白するまではあんなに不器用に振舞っていたレックスだが、素直な彼は本当に心臓に悪い。
そして、この質問をすると必ず彼はこう言うのだ、「無理しなくていい」と。
別に無理をしている訳ではないし、むしろ自分はこっちの相手の方が慣れているからそう言っているだけなのに、レックスは慣れているからこそ、ヤンがしたいと思った時でいい、と言うのだ。
実は本当に、何もしなくていいと思っているのか、と疑問に思ったことがある。アンセルにそれとなく相談してみると、なぜか彼はニヤニヤしながら頷くだけで何も言わなかったけれど。
(だから……レックス様のお役に立ちたい)
きちんと大事にしてくれているからこそ、ヤンはレックスの為に何かしたいと思うのだ。ただでさえ普段から世話を焼かれっぱなしなのだから。
「レックス様、あの……僕は騎士として日々努力しているつもりです」
「それは俺から見ても間違いなく事実だ。お前は読み書き計算も少しずつできるようになってきたからな」
ぎゅう、と腕の力が強くなった。苦しい、と思いつつも、ヤンは彼の腕の中で番 を見上げる。けれど視線は合わず、さらに腕に力を込められてしまった。
レックスの逞しい胸に頭を押し付けられ、彼の早い心臓の音が聞こえた。これは、と再び見上げようとしたけれど、大きな手で押さえられていてかなわない。
「あ、あの……レックス様……?」
「今はこちらを見るな」
レックスはいつも通りの声音だ。けれど、彼の心音の早さといい、この状況といい、本当は自分と繋がりたいのでは、なんて思ったらヤンまで顔が熱くなる。
どうしよう、ドキドキして全身が心臓になったようだ。レックスの心臓の音も大きいし、自分のも聞こえやしないかと恥ずかしくなる。
「レックス様、……怪我も治りましたし、僕は、……レックス様としたい、です……」
これは紛うことなき本音だ。レックスはヤンが怪我から回復するまで待っていてくれた訳だし、もう先延ばしにする理由はない。
「……そうか」
たっぷり十秒は考える素振りをしたレックスは、そう呟いた。ヤンはそっと彼を見上げると、強い金の瞳とぶつかる。そこには確かに静かだけれど強い情愛と、情欲が見え隠れしていた。
レックスのその目を見て、ヤンはゾクリとする。普段は冷静で、色欲とは縁がなさそうな彼が、自分に対して迸る感情を持っている。そう考えるだけで泣きそうなほど嬉しい。レックス以外の相手では、こうはならない感覚だ。
「分かった。……だが条件がある」
「……条件、ですか?」
その状況で出される条件とは何だろう? とヤンは疑問に思う。ロウソクの明かりに照らされたレックスの表情は真剣で、真面目な話なのだと唇を一文字に閉めた。
「条件は三つ。ヤンが嫌だと思ったらすぐに言うこと」
ヤンの心臓が跳ね上がった。彼はヤンが元男娼だということを加味して、多少無理をしてでも先へ進もうとするのを予測していたようだ。
「二つ目、ヤンからの手出しはしない」
「そんな……っ」
そんな一方的な触れ合いでは、レックスが満足しないではないか。思わず声を上げると、彼は表情を変えず、三つ目の条件を言う。
「俺が無理だと思ったら止めて、次の機会を待つ。この三つが約束できるならしよう」
何だその一方的な条件は、とヤンは彼のシャツを握った。
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