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第2話

腕の中に温もりを感じながら目を覚ますなんて、初めての事だった。幾ら相手に振り解く気力がなかったか知らないけど、こうもしっかり人一人を腕に抱いたまま眠れるなんて。  僕が窮屈な体勢を直す身じろぎにも、彼はぴくりとも動かない。髪を撫でても、頬に手を滑らせても。  投げ出された細い手首を捕まえる。長い事括り付けたせいで紐が残した、沢山の擦り傷と内出血。掴んだ僕の指の跡。  それよりも無数の、執拗に刻み付けたキスマーク。首筋から胸元から、腕や太股の内側、残せる場所という場所に吸い付いてやった。  彼は彼で、僕の体に傷を付けてくれた。主に立てた爪で、引っ掻いたり喰い込ませたり、それはいたずらにではなく抵抗の証として。  痛くされる事は、嫌いだった。堪らず反射的に力が入ってしまう、そんなのは多少痛くても許せたけど、攻撃手段として、または僕の気を削ごうとしてそういう反抗を故意に選ぶ相手には、頬をはたいたりわざときつく痛くしてやったりした。――なのに。  あきとになら、痛くされるのも悪くない。例えわざとにだと判っていても。血が滲む程に僕の肌に爪を走らせたらいい、圧迫が跡になる位に僕の体中を掴んで締め付けてくれたらいい、今迄誰も僕にそう出来なかった、してくれなかった親密な抗いとして。  ……あきと。喉がひりひりする程呼び続けた名を、そうしてまた僕は囁きで口にする。あきと、あきと、……あきと。  僕はおかしい、と頭の隅で声がする。生きた人間に、こんな感傷的な切ない想いを抱くなんて。そこに働く自分の感情、いつもの一方的な征服欲ではない、純粋に相手が欲しい、僕に振り向いて欲しいと願う抑え難い強い欲求、――それはいわゆる世間で言う、『恋に落ちた状態』なのだけれど。  そんな気持ちを誰かに対して僅かにも覚えた事のない僕には、その言葉自体が頭に浮かばなくて、初めて自分を戸惑わせる得体の知れない感情に翻弄されていた。  あきとを初めて見たのは、隣町の話題の移動式アイスクリームショップだった。よく本を注文する大型書店の行き帰りに、そこで働く彼を何度か見た。  いつも人だかりがしているのは評判のアイスのせいだけじゃないのだろう。子供や女子が喜ぶちょっとしたおまけやサービスのせいでも。  女子達が夢中になるのも頷ける、明るく無邪気な惜しげのない、人を惹き付ける嫌みのない全開の笑顔。  名札によると名字は『神坂』、かみさかかこうさかか、そんなのは捕まえてから聞けばいい――書かれていない下の名前と共に。  ターゲット決定、だ。  ――あきとはなかなか目覚めず、その間痺れる腕を入れ替えながら、僕は胸の中に閉じ込めた愛しい人を見つめていた。起きたら、何と言うだろうか。きっと僕を恨んで憎んでいるから、一度離れたら二度と僕の腕の中に帰って来ようとはしないだろう。  だから、この手を離す事は出来ないのだ。今だけは僕のもので居てくれる、眠る彼を。  額に口付ける。――離れた時、あきとの開いた目が見えた。開いただけでまだぼうっとしているのだろう、瞬きの後にもまた直ぐ眠りに落ちていきそうな様子の彼が現状を把握するのを、僕は黙って見守るつもりで居る。  顔を挙げて僕を見て、一旦視線はそのまま横に流れて、――はっとした様に戻ってきた目線が僕をはっきりと捉え、自分の体を抱き締める僕の腕を振り払う様にして飛び起きた。  無防備な裸を隠すものがないのに、一瞬唇を噛んで。ばっと掴んだ布団を抱く様にして、それをクリアした。  そうして改めて、強く僕を睨み付けてくる。うっとりする程真っ直ぐな敵意、汚した筈なのに染み一つ刻まれない誇り高い瞳、傷付いて尚輝きを放つ彼を、僕は眩しく見つめ返していた。  何を口にするべきか考えているのか。硬く閉じた唇は長い事開かれず、僕からは何も言う気配がないのを感じ取り、彼の緊張は高まるばかりだ。  結局何も口には載せず、あきとの下向いた視線は床に散らばった自分の衣服を辿る様に流れた。そのまま布団を落として無言で動いた彼は、その服を一つ一つ拾い上げて―― 「……ちょっとっ」  慌てて僕は彼の元に駆け寄り、服を掴んだ彼の手首を捻る様に持ち上げた。 「何を、してるの?!」  ぎっと僕を間近から睨んだと同時、勢いよく僕の手を振り払う。当然の事を口にしただけ、と言わんばかりの、力のこもった声が言い捨てる。 「帰るんだよ!!」  何がおかしい、と言いた気に。殺意の凝縮した、獰猛な目に圧倒されかけた。だけど、逃がす訳にはいかないのだ。  僕はがばっとあきとの背に手を回し、きつく彼を抱き締めた。一切の相手の動きを制する為に、恐ろしく強い力で。 「……なせっ」  それでも僅かな隙間、あきとはもがこうとして必死で僕の胸を押している。更にきつく、僕はあきとを掻き抱いた。 「て、めっ……」  呼吸すら苦しそうなのに気付いて、僕は僅かにだけ腕を緩めた。だけど逃げられたくはないので、宣言してやる。 「帰さない。ここから一歩だって外には出させない。どうやってでも外に出ようとするなら、両方の足の腱を切る」  低く告げた声は狂気を含んで響いたのか、腕の中のあきとの体が強張った。怯えさせたい訳じゃない、咄嗟に僕は背中の手を片方上に上げ、あきとの後ろ頭に持っていった。そのまま、愛しむ様に撫でる。 「君は、僕のものだ……僕だけのものだ。離さないよ。死んでも、離さない……君は、もう僕のものなんだからね」  僕としては告白のつもりでもあるんだけど、彼には精神異常者の切羽詰まった脅迫にでも聞こえているんだろうか。動く事を恐れた様に、あきとの体は緊張を抱えながらにじっとしている。  愛しい。それも伝えるべきだろうか。考えた処に、突然勢いを取り戻した様に大きくもがいたあきとが、不意打ちを利用して僕を押し退けてきた。 「――わりいんだよっ!!」  何と叫んだのか。僕から逃れて立ち、激昂を秘めた鋭い視線で僕を射る。意地でも離したくないらしい服を握りしめて、芸術品の様な裸を晒して。  凛と立つ全身から立ち昇る、憎悪を孕んだ殺気。手負いの孤高な肉食獣にも似て。  その美しさは、僕を感動させていた。傷付ければ傷付ける程、この身体は輝くのだろう。怒りや憎しみ、間違いなく大輪の向日葵を連想させる陽の雰囲気を纏いながら、そういった暗く澱んだ陰の要素が、張りつめた静謐な儚さをも浮かび上がらせる。彼を殺せないと思った本当の理由が、そこにある様な気がした。 「気色、わりぃんだよっ……」  不意に落とした目線で、小さく彼は呟くのだ。僕への拒絶も顕わに。  見つめる内、手にした衣服を胸元に押し当て、そのままあきとはずるずると滑る様にその場に座り込んでしまった。今迄の強さの一切を無くした、無気力に支配されたうろんな態度。  閉じた目は、諦めを意味するのか。じいっとそうしてあきとは動きを止めて。 「あきと。……あきと」  呼び掛ける僕の声にも、何の反応も示そうとはしてくれないのだ。 「……真剣なんだ。本気で、君を離したくない。離すつもりもない」  ぴくりとも動かないあきとに近付いて、僕もその傍らにしゃがみ込む。もう一声、僕は自分のありのままの想いを相手にぶつけてみる。 「初めてなんだ。欲しいと思ったのも、大事にしたいと思ったのも。誰かを特別に思う事自体が。君を、自分のものにしたくて堪らなくなった。僕だけのものに。……愛してる、からだと思う。愛してしまったから、だと思う……」  考えながらの僕の真剣な言葉に、ようやく重た気に目が開かれた。なのに宙に据えられた目線に力はなく、僕の方を見ようともしていない。  抜け殻の様な虚ろさは、彼の存在価値を失わせた。生きた人間を人形としてしか見られない僕が、産まれて初めて、人形になりたがる相手を人に戻そうとしている――頭の中、冷静な分析に僕は戸惑う。必死に相手の閉ざした心を開かせようとしている、そんな面倒で何の利益もない事をしようとする目的は?  問い掛ける自分自身に、僕はあきとへの働き掛けでもって答えに代えた。すぐ傍の僕の存在を無視しきったあきとの背中に手を回し、力無く投げ出された全身を包む。そうして、言い聞かせる様に囁きかけた。 「愛してる」  その身体のどの部分も、微動だにしない。それでも僕は諦めなかった。頼りなく腕に収まる体に愛しさを再認識して、ぎゅうっと彼を強く抱き締める。言葉なんて、勝手に口から何度でも飛び出していった。 「愛してる。愛してる、あきと。愛してる。……愛してる。あきと、愛してる……」  繰り返す事が、少しも苦痛じゃなかった。勝ちの見えない劣性の戦いでも、嫌だと思わなかった。相手に応えて欲しくてそうする――初めての、自分の想いをぶつけて返事を待つ高揚感。  ――独占欲。僕を駆り立てる激しい感情、……そうだ、これは『独占欲』なんだ。  自分の感情に一つの言い回しが当てはまり、僕は素直にそれに納得していた。独占欲、好きだからこそ、自分だけのものにしたいと願う事――全くもって、言葉のとおりだ。  そして今、打算も何もなかった。今迄いつも一方的に捕まえてきた獲物を味わい、殺すしかした事のない僕に、相手を労り相手の想いを尊重するなんて高等技術が使える筈もない。ただありのままに言葉を落とすしか出来ない僕は、いつ迄もその一言を繰り返すだけなのだ。 「愛してる、あきと、愛してる、愛してる。愛してる。愛してる。愛してる……」  うるさい、と言いた気にあきとの腕が僕を押し退けようとしてきた。反応が返ってきた、単純に嬉しくなってしまう僕は、更に強く腕に力を込めた。  はあっ、と僕の胸に熱い息が掛かる、当て付けの様な大きな溜め息に勢いを借りたのか、あきとが体を捻り首を捩ってどうにか僕の抱擁をかいくぐり、顔を外に出した。  きっ、と僕を一直線に睨み上げてくる瞳。先程迄の鋭利な強さが全身を包んでいる、本来の彼に備わったものらしい、躍動感に満ちたオーラ。  目線も口調もきつく、あきとは吐き捨てる様に告げた。 「しつけぇんだよ。三回言や分かる」  そうして、目を反らした。分かり易い程にぶっきらぼうな照れ方。照れている、のだ……胸を鷲掴みにされた様な衝撃に息を呑む僕に、自身の言葉がどれ程に重みを持つかに気付きもしないあきとは更に続けるのだ。 「ウソだって分かったら、殴り殺して出てくからな」  ――純粋な魂を有したその人は、僕の事を赦す気で居るのだ。あんなにも自分に酷い事をした相手を、……僕の行為の根本的な理由を僕が告げた一言、愛、からだと真摯に受け止めて疑いもしないらしい、この無垢な魂の持ち主は。  ……愛しい。知れば知る程に。緩く抱いたままの僕の手を振り解こうともしない無防備な姿。強がった虚勢に頬を染める幼さ。  近付けた僕の顔に、直前迄反応出来やしないのだ。びくっと身を竦ませる体はそっと抱いたまま、力の入る唇を捕まえる。  緊張を解いてやりたくて、優しく、柔らかなキスを心がけたつもりだった。だけどうぶで真面目な相手は、そう簡単に気持ちを切り替える事は出来ないらしかった。  ぎゅうっと目を瞑って僕からの強奪をやり過ごすつもりなのか、唇は一向に緩もうとしない。まあそれでいい、と応えてはこないけれどとろける様に味わい深い唇を味わうだけ味わって、僕は思う。彼はここに居る事を選んだ。自分の意志で。  ――ようやく、僕は彼を解放した。名残惜しいから、抱いた腕は背中からは離さずに。  愛しく相手を見る僕と違って、乾いた理性だけを全面に押し出したあきとは、僕の欲情にそれ以上の火が点くのを恐れる様に、突き放す声音で言葉を発した。 「おれのこと、監禁でもする気かよ」  監禁。何て甘い響き。やっと、僕の思いに彼が追い付いた。……可愛い。余りにも可愛い過ぎて、答える事よりも口付けようとまた近付けた唇は、けれども今度はかわされた。折角収められていた怒りを顕わに、あきとが噛み付く様に声を張る。 「てめえっ!! しつこいっての!!」  どん、と僕の体を乱暴に突き飛ばす。思った以上に体を仰け反らせた僕を見て、咄嗟に自分の行動が僕の怒りを買ったかと怯えたらしい。威勢を盾にした窺う様なあきとの目を見て、安心させてやりたくて、僕は柔らかな笑みを顔に浮かべてみせた。  僕の表情を猜疑の目で受け止めたらしいあきとは、急に裸の自分が頼りなく感じられたのか、胸に押し付けたままのくしゃくしゃの服をぎゅっと握り締めた。縋るものを探す様に。  そうして、消え入りそうに心細い声でぽつりと落とした、可愛い過ぎる一言。 「……監禁は嫌だ。せめて軟禁にしろ」  ――我慢なんて、出来る筈もなかった。骨を砕いてしまうかも知れないと一瞬頭をよぎる程に力を込めて、僕は愛し過ぎる相手を掻き抱いた。  強張りに硬さを増す筋肉の抵抗。生きているからこそ収縮し弛緩する体。吸い付きねぶり噛み付きたくなる、甘い糖蜜に覆われた肌。  ……抱いているだけで、幸せだと思った。今迄どんな相手にも、そんな人間じみた感情を覚えた事はなかった。体温すら、どちらかというと邪魔なものだった。なのに。  触れ合う温もりが、こんなにも心地好い。どきどきと脈を打ち胸にぶつかる鼓動。生きた相手に感じる欲情。――初めてだらけの驚き。  ……あきとが、苦し気に息を吐く。甘く僕の胸を焦がす熱。溶かされてしまえばいい、と僕は思う。灼かれた肌から引っ付いて一緒に溶けて、総ての肌が混じり合ってしまえばいい。一つの心臓を二人で有するシャム双生児の様に。

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