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第4話

歩くあきとの後ろに、ガシャッ、と何かが落ちた。拾い上げたそれを、あきとは今迄の習慣の様に無意識めいた仕草でジーンズの後ろポケットに仕舞った。使えない筈の携帯。  揺れるストラップ。似た様なものが二つ並んでいる。何故、放って投げ出したままだったそれを急に持ち歩き出したのか。  やがて台所から出てきて、僕の分のコーヒーを差し出してくるあきとに今迄と変わった処がないのに、そんな些細な事を僕は頭から追いやろうとした。ソファに腰掛けている僕の隣、大抵いつも肘掛けの狭い場所に浅く尻を載せるあきとが、ぽつりと言葉を落とした。 「もうすぐ、兄貴の誕生日だ……」  寂し気な口調。家族を次々に亡くした、とあきとは言っていた。感傷的な気分になっているのか、続ける。 「静かで優しくていいヤツだった。母親が違うから離れて育って、親父さんが亡くなったからっておれのおふくろ頼って出てきて、一緒に住み出した。おふくろが死んでふたりになって、おれたちお互いを支えにしながら生きてたんだ」  冷えた心を暖めようとするかの様に、両手で大きくカップを包んで。気を許した様に自分の事を語ってくれている、嬉しくなって、僕はあきとの次の言葉を待つ。暫くの無言の後、ようやくあきとは口を開いた。 「見せてやりたかったな。待ち受けにしてたんだ、ふたりで写ったやつ」  携帯画面、の事らしい。僕に、ではなく自身が見たくて堪らないのだろう、見られない筈の携帯をせめて持ち歩く位に、――伏せた目は哀しみを抑えようとしてそれを成し得ず、より切なさを滲ませた美しさを醸し出していた。  綺麗なあきとを、今この瞬間の姿のまま殺して固めてしまいたかった。次から次に知らない顔を見せるあきとに見とれる様に、知らず僕は瞬きも忘れている。  頼りない表情と相反するどこか強い声で、あきとの言葉は放たれた。 「突然いなくなったんだ。1年前。見つからなくて、必死で血眼で探した。警察も探偵もあてになんなくて、でもやっと自分で見つけ出した。誘拐されて、殺されてた」  ざわりと何かが胸を這い昇る感触――嘲笑に唇を歪めて、あきとが乾いた声で呟く。 「おれも今、つかまってる。いつ殺されるか分かんねえ状況だ。『はると』と同じ――運命っての、信じたことなかったけどさ、今は強く感じるよ。おれもはるとと同じ道を辿るんだな、と思ってさ」  気付くと、あきとの強い目は今僕に据えられている。僕を疑っているのか、それとも他に実在する彼のお兄さんを殺した犯人の事を告げているのか。どちらともとれる台詞、どちらともとれる薄い笑み。  あきとの告げた、恐らく名前、『はると』と言うのに、けれども僕はそこだけは安心している。相手の名前を明らかにする僕のコレクションの中に、『はると』の名はない。それにもし居たら、『あきと』の名を知った時点で繋がりに気付いている。  ……あきとは、僕に探りを入れようとしているのか? 見付けた、と言うカマを掛けて僕からボロを出させようと企んでいるのか?  捕まえてきてからのあきとの行動を、僕は反芻してみる。軟禁、正しくその言葉のとおりに、縛ってこそいないだけで、彼の事は常に視界に入る場所に置いていた。  僕は余り眠らない。あきとを手にしてからは狂った様にあきとを抱き、彼に溺れる様に過ごしてきて、その間僕は僅かな熟睡しかしていない。貪り疲れてあきとの上に被さったまま寝る事が殆どで、でも目覚めた時もいつもそのままの姿勢で、疲労困憊のあきとが僕の熟睡の間に僕の下から抜け出して、どこかを探っているなんて考えにくい。  あきとを自由にさせるのはトイレと風呂位だ、それだって浴室での反響する声を聞きながらのプレイはそそるものがあって、数える程しか一人では入らせていない。  台所と繋がったこの部屋と浴室とトイレしか知らないあきとに、この家に地下がある事を知る手だてはない筈だ。もし知る事があったとしても、鍵の掛かった地下への扉を開ける事は不可能だ。あきとに僕の秘密が知られた筈はない、彼が僕に掛けるカマのヒントを掴める筈はない。  自分が誘拐されて軟禁されて――「急に居なくなった」兄の行方を辿れずにいたあきとは、自分の状況に兄を重ねてただ僕を疑っているのか? それとも僕を疑うに見合う、何か決定的な証拠を持ってここに乗り込んで来たのか?  つい少し前に否定したばかりの疑惑が、また頭をもたげ出す――  前にも言ったとおり、僕はこういった心理戦に全く慣れていない。流れからして今は有利なあきとに、彼が何も知らない振りを装っているのかどうかすら予測も立てられない僕は、何も言葉を返せずにいる。  見つめ合う、長い間。ふっと破顔したあきとは、読もうとしても読む事の出来ない――僕が見る限りには矢張り、裏のない感じの笑みで軽く言ってのけた。 「なにお前が泣きそうになってんだよ。おれの兄貴のことだろ、お前関係ねえじゃん」  余りにもさらりと告げる、『関係ない』に表される、僕を疑っていない事を馬鹿みたいにあっけらかんと明かす態度。……だけどもしかして、これこそがあきとの苦肉の策のカマ掛けで、安堵した僕から自白を導こうとする作戦かも知れない……  一層の気を張り、構える僕からいつしか体毎向こうを向いて、初めて聞く、一切の感情を排他した声であきとは呟いた。 「そいつへの復讐はさ、もうすんでんだ。だからおれがお前につかまっても、別に困ることはねえんだ。ただ、ここまで生かしてくれてんなら、あともう少し殺さないでくれってお前には頼みたい。兄貴の誕生日を越えるまで、あともう少しだからさ……」  今迄微塵も匂わせなかった諦め。捕まえいたぶり殺してきたどんな獲物よりも強く、あきとはそれに身を浸していたらしい――口に態度に出されないだけに、より身を裂く様な張り詰めた痛々しさを晒け出して。  明るさと対比する翳り。気丈に振る舞っている様で、自分の運命として囚われた事を、そしていずれは僕に殺されるであろう事を受け入れている様で、その実誰よりも絶望に身を投げ出していたらしい空虚さ――  安心させてやりたくて、ただそれ以上にそんな無表情を作らせたくなくて。焦りが上擦らせた声で、僕はがっしとあきとの肩を掴んで自分の方に向けさせ、口にしていた。 「殺さないよ。絶対に、僕は絶対に君にだけは手を掛けない。何があっても。殺さない……殺せない。あきと、君を愛してるから。ずっと一緒に生きていきたいんだ。ずっと、僕と一緒に居て欲しい。あきと、愛してる……」  ぎゅっ、とその体を包み込む。死体みたいに何の力も入らない体に気付いて、一方的過ぎる告白、強引な抱擁を、すぐに僕は後悔した。本当に、人と接してこなかった奴ってのは。  ……そっと手を緩める。案の定、体を離したあきとはどこか投げ遣りに視線を彷徨わせ、僕の言葉も彼の内側には届いていないらしかった。  相手の反応を待つべく、僕はあきとに顔を近付け、じいっとその目を見つめた。合わなかった焦点が定まり、絞られ、あきとの目がはっきりと僕に据えられた。  ここにきて、僕の言葉の真意を疑うのか。射る様な鋭い視線は、猜疑を全面に押し出している。僕の「愛してる」が、そんなに嘘っぽく響いたのか……。  彼に嫌われたくない、嫌われたらどうしよう――そんな考えに身を硬くする僕は、言葉を探す努力を瞬間放置した。珍しくあきとの方から、問いは発せられた。 「お前がおれを殺さねえことの保証は、どこにある?」  試す様な口振り。冴えた色を浮かべた瞳は恐ろしく真剣に見えた。  嘘偽りを絶対に許さない人だ、軽はずみな逃げ口上なんか、すぐに見抜かれてしまうだろう。まあ、そんなので誤魔化すつもりも、僕にははなからないけれど。  ……愛しいひと。失ってしまったお兄さんの事を、消えない傷として抱えるひと。癒してあげたい。君はお兄さんと同じ道を辿りはしないよ、と。僕は絶対に、何があろうともう君を傷付けない、と。  体を重ねる事が君の苦痛になるのなら、君がいいと言ってくれる迄、僕は君に手を出さない。ただ残念な事に手放す気はないから、どうやっても外に出してあげる事は出来ないけれど。  そんな事を考えて本来のあきとの質問から遠退いてしまった、慌てて思考を戻して僕は考える、あきとに誓う為に、僕が成すべき事。  ――考えと同時に、体が動いていた。僕はすっと左手を挙げる、自分の顔の高さ迄持ち上げた左の手首、躊躇わずそれを口の前に持ってきて、僕はそこに歯を立てる、かなりの思いきった力でもって。  ……噛み破いた血管から、口の中にじわりと血液が流れ入ってくる。浅くその近くを走る動脈を誤って噛まなくて良かった、と思いながら僕は口を離す。  僕の手首からゆっくりと滴り落ちる血を、あきとは驚愕に見開いた目で見つめている。右手の人差し指で流れてくる血を受け止め、朱に濡れた指先で、僕はあきとの唇を右から左になぞった。彼の唇を縁取る様に。  あきとは、逃げなかった――常軌を逸した僕の所作、こぼれる血を見ても、その上血を受けた指が自分の唇に迫ってきても。驚き以外には表情を変えずに。  微笑んで、僕は囁いた。 「流した血に、誓う。僕は絶対に君を殺さない。君の体から、故意に血を流させる事はしない。僕のこの血が、君への誓いだ」  信じてくれるだろうか。届くだろうか。痛い事が大嫌いな僕の心からの精一杯を、伝えたい一心の僕の真剣な気持ちを。  じっと見つめる。あきとの視線も、揺るがない。畏怖にも軽蔑にも、警戒にも心配にも。ただ静かにあきとは全てを受け入れた様に――潔く真っ直ぐな目で僕を射って、力強い声で告げた。 「理解した。お前の言葉を信じる」  僕の想いは、彼の正義に届いた様だった……。ほっとして、僕はまだ薄く血の流れる手首を下に下ろす。途端に痛みが自覚として頭を占め、僕はそっと傷口を指で圧迫し、止血と共に痛みのブロックを試みた。  顔色一つ変えず、大丈夫かとも尋ねない、あきとは凛としてその場から動かなかった。けれども目を反らしもせず、僕を否定もしなかった……それが、真実の答えだ。あきとの絶対の答えだ。  微笑む。あきとが愛しい。こんな純真なひとを、僕は知らない。こんなに心の底から魂もろとも、欲しいと思ったひとなんて居ない。  初めてなのだ。死んだ後の身体に重きを置く僕が、その対象と一生一緒に生きていきたいと考えるなんて。生きた体の方がいい、そう思うだなんて。  ――体全部を、残らず僕のものにしてやりたい。骨毎内臓毎ぼりぼり食べて、彼の血肉を細胞を僕の体の一部に置き換えるのだ。彼の精神は彼の声は僕の役立たずの脳を乗っ取り、僕の思考を吸収し統合し、僕と共に生き続ける――一つになって、永遠に。  究極の、それは僕の望み。実際に叶う事はないけれど。だって、彼を食べてなくしてしまうなんて、冗談じゃない、勿体ない。こんな上等なひとに手を掛けられる訳がない、こんな綺麗なひとをこの世から消してしまえる筈がない。  あきと。そっと腕に包む。嫌がったり拒んだり、僕の腕から抜け出そうとはしない。それだけで、僕には満足なのだった。あきと……心からの声を、そうして僕は口に出していた。 「……愛してる」  いつも、返事を返される事のない僕の告白。しつこい、うるせえ、聞き飽きた、そうとしか、あきとは返さないけれど。  信じられない、ではないのだ。黙って肯定した上での照れ隠し。不器用な彼らしく。  ……愛してる。加減を知らない僕は、ただそれだけを繰り返す。いつもなら唇を求め組み敷いていく体を、決心を決めた以上抱き締めるだけに留める僕に、彼がいつ気付くだろうかと期待しながら。

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