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第5話

体中に、感じる痛み。最近お馴染みの、あきととの行為に夢中になっているせいでの目覚める間際の全身の重怠さとは、それは全く別のものだった。大体にして、昨日はキス一つ交わしていないのに。  だからこその、疲労の蓄積なのだろうか? でもこれは、あちこちを打ち付けた様な、全身性の痛さだ。例えるなら、長い階段を転げ落ちた位の……。  ただベッドから床に転落しただけで、ここ迄痛みが強いとは考えられないし、その記憶がないのも不自然な話だ。  何か妙に鼻につく、生臭い嫌な匂い。血と……魚の内臓の様な。顔を動かそうとして、顔がぴくりとも横に向かないのに僕は気付いた。顔どころか、指先一つ満足に動かない。動かせない、のだ。縫い付けられた様に。  声が出るか、確かめてみた。喉元に力が入らない。ひゅう、と喘息患者の細い気管から洩れる音の様なものしか出なかった。  不自然なのはそれだけではなかった。開いている筈の目も、闇をしか映さない。顔に、何か布を被されている。  仰向けの背中の伝える感触はフローリングの床で、ベッドの部屋は絨毯だから、僕の体は眠りについた前とは違う場所に移動している。――移動させられて、いる。  何より、感覚で分かっていた。ここは地下室だ。蝋で固めた複数の死体の放つ寒々しい空気の質、二メートル四方を超す巨大な水槽の中の水を清潔に保つ為の循環ポンプの音――体と違って支障のない思考で、僕は考えていた。……どうやってあきとはここを知り、僕をここ迄運んできた……?  考えはけれど、直ぐに中断させられた。突然顔の横に人の気配を感じた。あきと、か、僕は遮られた視界の中、そちらに顔を持っていこうと動かせない首に力を入れようとする。 「……ぴば……でーとうー……」  途切れた小さな声は、歌う様に。顔の布がゆっくり取り払われ、目に映ったあきとはにっこりと僕に笑い掛けてきた。 「ハッピーバースデー、トゥー『はると』」  状況にそぐわぬ無邪気な歌声、この場を僕を支配した強みなのか……あきとの手には一輪の薄い紫の花があった。彼に散りばめた造花の一つ――今僕の正面に見える、ベッドに横たわるゆうきの。  嫌なざわめきは今や、悪寒として足元からじわじわと這い上がってきている。あきとは笑っている、見た事のない、貼り付けた様な嘘くさい冷笑。けれども何故だか、あきとの顔に、それは妙にしっくり収まっている様に見えた。  まるでそれが本来の彼の笑い方である様な、いつも僕の前で見せていた陰のない全開の笑みこそが偽りだったと思わせる様な。  余裕の落ち着きで、匂う筈のない香りを楽しむ様に、あきとは手にした花を愛でている。表情と同じに聞いた事のない冷めた声で、あきとは言葉を落とした。 「お前も祝ってくれるよな。兄貴の誕生日」  ――兄貴。僕が「ゆうき」だと認識している対象を、あきとは「はると」だと告げている。……爽やかな大学生の集団の中に居ても一際に輝いていたゆうき、周囲の呼ぶ「ゆうき」の名が彼の面持ちに実にぴったりとはまる感じに思えて、僕は彼を「ゆうき」という存在でしかない、と思っていた。かみさかだかこうさかだか、最早どうでもいい程あきとが「あきと」である様に。  母親違いの義兄弟だとあきとは言った、「はると」が彼の名だとするならば……彼は「ゆうきはると」――、僕は名字の「ゆうき」を彼の名だと思っていたのか?  ……似てる、と思っていた。初めから僕は、二人を並べた場面を何度も想像していた。「ゆうき」の隣に並べる対象として、あきとを選んだ位に。皮肉にも僕は、本能で二人を繋げていたのだ。  まだ笑顔は崩さず、あきとは鋭い声で告げる。 「人には飲ませんのに、自分じゃ飲んだことねえんだな、睡眠薬。バカほど効いてくれる。お陰さんで、たっぷり探しもんができたぜ。お前が持ち物に執着のねえヤツで助かったよ。……けどホント、金持ちって便利だよな。今までさらってきたヤツらの荷物やら服やら、余った部屋に無造作に放りこんどきゃすむんだもんな」  ひきつった喉から、元より声は出そうにない。くぐもった呻きを洩らす僕の両脇に手を入れ、あきとが乱暴に僕の体を引っ張り上げて座らせる形にした。 「お前が今声も出せねえのは、睡眠薬のせいだけじゃねえ。筋弛緩剤っての、打ったからよ。動いて欲しくもねえし、お前の声をおれもう聞きたくねえのよ」  僕の前にしゃがんだあきとは、深い底のありそうな酷薄な笑みを浮かべている。すっかり僕を騙しきっていた、純粋さを感じさせる要素をきれいに排除した昏い笑みで。  手の中の花をすっと僕の口にぶつけ、そのままゆっくりと顎を伝わせ首を通り胸の中央を通らせながら、あきとは楽しむ口調で続けた。 「おれさ、昔から探検っての好きでさ。学校の裏の山とかさ、誘っても危ないからって誰も来ないから、いつもひとりで入っちゃ色んな隠れ場見つけたりしてた。どんな迷いそうな行き止まりだらけの道なんかでも、行ってみりゃ意外と身近にゴールがあったりすんのさ。この部屋みてえに」  同じ動きで折り返して、花はまた僕の口に戻ってきていた。唐突にその花が汚いものに変化しでもした様にそれをばっと手放し、あきとは立ち上がった。繕う事を放棄した、嫌悪にひそめた眉根も険しい顔で、彼は僕を見下ろした。 「教えといてやるよ。バスルームの天井の換気ダクトから排気管の中を通って行きゃ中庭に出られる。裏庭の草で隠れた場所には地下に降りられる梯子がある。お前が今体の痛みを感じてんのは、おれがそのルートでお前をここに引きずってきたからさ。あいにく軟禁された身なんでね、ドアの鍵なんて真正面からのもんは探しようがねえのさ」  唇だけを歪めて嗤う。ひそめた邪悪な闇を纏った見慣れないあきとはけれど、こんな状況だというのに僕の目を惹き付けてやまない美しさを放っていた。正面からぶつけられるより辛辣な、憎悪や殺意が内面から滲む毒々しさ。  あきとの目がふいと動く。ベッドに横たわる「はると」に近付き、その傍らに腰掛け、「はると」の頬を掌で包む。長い事、ただそうしてあきとは「はると」に触れていた。自らの体温を移そうとでもするのか……  ふっと思い出した様に、あきとはジーンズの後ろポケットに手をやった。携帯を取り出す。似た様な二つのストラップ――片方を解いて、あきとはそれを「はると」の組んだ両手の隙間にそっと置いた。 「見つけたぜ。死ぬまで一緒に持ってようって、あんたがくれたんじゃん。もう落とすなよな」  とろけそうに優しい声音、額を頬を撫で髪を梳き、あきとは兄を愛しんでいる。目が開くのを待つかの如く。慈しみを讃えた目はけれども、――ゆっくりと僕に向いた時には凍える様な憎しみの色に染まっていた。切り裂く刃の鋭利さを孕んだ、研ぎ澄まされた声。 「はるとの失踪届けを出したとき、警官が口を滑らせてくれた。まただ、ってね。はるとと同じくらいの歳の男の失踪が異常に多いってことを、おれは知った。なにがなんでも調べてやる、と思ったよ。警察関係者の娘に片っ端から当たってオトして、調べさせたり警察のデータベースの暗証番号を手に入れさせたり、あらゆる手を使って調べた。10年位前まで遡っての失踪被害届けの出された地域、性別年齢、失踪の状況、被害者の家庭環境、実際に逮捕された犯人、――大抵は遺体として発見されて刑事事件で処理されることが多い中、ある時期から限定された範囲の地域では被害者の性別・年齢・容姿が共通し、かつ遺体や遺留品が発見されないケースが多いことが浮き彫りになった」  流暢な喋りは感情を欠いて、まるであきとではない様だった。冷静なこの姿が本来の彼の性質なのだとするならば、あの天真爛漫で純真だと僕に思わせた態度は全て演技だったと言うのだろうか。総て今日のこの場面に導く為の、布石だったとでも……?  まだ喋る事は出来ない、体も動かせない……座らされたままの僕は、喘ぐ様に浅い息を吐く。興味を無くした様にふっと僕から愛しい兄の方に向き直り、その体に寄り添う様にしながら、あきとは淡々と続けた。 「犯罪者心理っての、大学で専攻科目にして教授を質問責めにしてやった。実際逮捕されたことのあるヤツやストーカーしてるヤツ、そんなのに聞き回った。ターゲットをどう設定し、どんな条件が整えば実際の犯行に及ぶのか、究極は相手をどうしたいのか。答えは共通してた。みんな相手を自分だけのものにしてどこかに閉じ込めて囲いたい、って言うんだ。それをする場所や勇気がないから諦めるんだと。じゃあ場所さえあれば……? そこで次に、さっき言った『限定された地域』に絞った範囲での倉庫やガレージのある家や会社、取り壊しが途中で終わってたりする建物、規定の緩い不動産会社が扱う物件、地下のある家、色んなもんをとにかく当たった。勉強になったぜ、昔ながらに地下室のある家なんかは、忌まわしい人物の幽閉や密輸品の隠し場所なんかに使われてたんだってよ。いつでも出し入れできる様に、大抵の裏手になった場所には地下に降りられるルートが確保してあるってな。色んなとこ忍び込んじゃ入り口見付けて、降りて確かめた。――ほぼ1年。やっと、見つけた」  最後の力強い一言には、底知れぬ怨みが漂っていた。ゆらりと身を起こして立ち上がり、あきとは僕を見据える。自らの身を犠牲にした復讐の化身。睨む目から炎を噴きそうに、全身から立ち昇る殺気の熱。  ――僕が関わらなければ、二人には極普通の幸せが訪れていたのだろう。僕が狂わせ、僕が奪った、二人各々の未来。あきと本来の輝かしい無邪気さを失わせ、替わりに植え付けてしまった、抱く事などなかったであろうどす黒く澱んだ呪詛の念。  ……あきとは僕を殺す気でいる、それが明確に分かっているからか、僕は自然と穏やかな気持ちであきとを見上げている。今の今迄自覚した事はなかったけれど――もしかして僕は、こんな風な結末を望んでいたのかも知れない。  恨みであれ自分に強い想いを向けられ、ぶつけられる事。他人から関心を持たれず、干渉を受けた事がない僕の、最も欲しかった接触。  憎しみ。憤り。蔑み。それは、僕を真正面から見据えての感情だ。隠せず滲み出ていた眩しいあきとの強い感情を感じて、――僕はだから、初めて自分に勝負を挑んできたあきとの命を奪う事が出来なかったのだろうか……。

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