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第6話

暫くまた、射る様な視線を見返していた。運命を受け入れた風に僕が平然としているからか、あきとの目には徐々に侮蔑の色が拡がってきた。  やがて僕から退いた目線が、「はると」のベッドのある方、僕のコレクションの方を向いた。十体を越すコレクションの数々や巨大な水槽を驚きに見回すでも、もの珍し気に眺めるでもない――彼はさっき告げた、『色んなとこ忍び込んじゃ入り口見付けて、降りて確かめた』と。今回僕に拉致される前から、彼はきっと幾度もこの光景を見てきたのだ。最愛の兄の囚われたこの地下室を。  ――そうして今、あきとの目は一直線に「藁小屋の略奪」を模した場面で止まっていた。やがておもむろにそちらに向けて歩き出したあきとは手を伸ばし、略奪を行う男の右手が握った長い刃の剣を取ろうと、その柄を掴んで引っ張った。蝋で固めた男の手からそれが離れないと知って、あきとは強行手段に出た。  男の手首に手刀を叩き込み、ぽきりと折れた手首毎手にすると、床に置いた刀の柄を足で踏みつけ、邪魔な男の指や手の平などを排除した。それでも僅かに残る残骸を服の袖口で拭くあきとは、始終冷徹な無表情を呈していた。  切れ味を確かめようとしてか、無造作に刀を払う。刃が深く切り裂いた男の胸元、内部の処理など何も施さずに表面を蝋で固めただけの腐敗した体から放たれた強烈な異臭に、あきとは顔をしかめ、次いで直ぐに嗤った……笑いなんて出る筈のない、こんな場面で。  凄絶で邪悪な笑み。衝動に駆り立てられた様に、あきとはその男の横に位置する、教会の牧師の姿に祈りを捧げて膝まづく青年の背中にも斬り付け、更にその横の巨大な水槽のガラスに向けて、今度は刀の柄の部分を勢いをつけて叩き込んだ。  映画のワンシーンの様に、細かく砕けて煌めき落ちるガラスの破片と盛大な音と共に滝の様に溢れ出る水、足元を掬われ、よろけたあきとは笑いながら兄の眠るベッドに捕まった。動けない僕は水の奔流に拐われ、横倒しになって、流れ出てきた薄い紫色に変色した水死体に押される様な形に、一緒に流れていきそうになっていた。  がっしと僕の襟首を掴んで持ち上げようとして、服が水を含んだ重みに自身も倒れ込みそうになり、あきとはあっさりと僕の体を手離した。「はると」のベッドの支柱に引っ掛かって止まった僕のうつ伏せになった体を足でどうにか転がして仰向けに戻しながら、排水口の近くに流れていった水死体と音を立てて減っていく水とを、あきとはけたたましい笑いで見送っていた。 「きれいでお上品な展示場も形無しだな!! まあ、お前にはこっちのがお似合いなんじゃねえの?」  ひとしきりの大きな笑いを、唐突にぴたりと止めて。笑っていなかった冷酷な目を僕に据えて、あきとは水に濡れて少しは洗われた、まだ血の残る刀を僕の服になすり付けて拭き取った。  咄嗟に斬られる、と覚悟した僕に言い聞かせる様に、あきとの言葉は禍々しい口調で放たれた。 「おれの復讐はもうすんでるって、昨日言ったよな? お前の体中に、おれわざと傷を作ってやったんだけどさ、1個だけおれがしたんじゃねえのがあんだよ。誰のだと思う?」  ……尋ねられても、答えが出る筈はない。僕からの返事など求めてもいないあきとは、ただ僕の不安を増大させる為に問い掛けた無言の間としたらしい。  くすりと、静かさが却って背筋を寒くさせる笑いをこぼして、あきとは続けた。 「携帯にゃ写メ入ってんだけどさ。ネパールからのおれの大親友、ラット君さ。分かる? ラット。実験で色んな感染症を植え付けられた中でも、特に凶悪な病気を持ったやつを選んだんだ。小せえ体をふんだんに感染源で膨れあがらせた、死にかけたラット君さ。……ああ、知らねえか。お前鞄とか服とか見ねえもんな。被害者本人にしか興味ねえヤツだもんな。まあそのお陰で無事におれと一緒に敵地に潜入できたそいつのさ、最後の頑張りで、お前の胸元に引っ掻き傷を作らせたのさ。1956年以来日本じゃ1例の発症例もないっていう、狂犬病っての? そんな学術的に貴重な爆弾を抱えたラット君が、お前の死への案内人さ。ちなみにその狂犬病ってやつさ、致死率100%なんだぜ」  語るあきとの一見うっとりと細めて見える瞳に、とり憑かれた熱気に浮かされた危うい狂気がちらつくのが見えた。 「傷口を拡げて、お前の血や内部組織に腹を裂いたラット君の中身を流し込んで、なすりつけてやったのよ。どれくらいの潜伏期間をおいたらどんな症状がでてくんのかな。苦しむだろうな。是非とも苦しみもだえて欲しいよな」  残忍な嘲笑、語られる、余りにも想像を絶する内容に僕は目を見開き、呼吸すら止めてしまいそうになっている。けれども僕を見ている様で、あきとの目には今の僕は映っていないらしかった、将来そうなるであろう僕の無惨な姿を見ているらしいあきとには。 「ネパールじゃちょっと金をちらつかせりゃなんでも簡単に手に入る、実に裕福な事実だな……お前も最大限に恩恵を受けただろ、金の力だよ。致死率100パーでいやエイズウイルスもさ、魅力的ではあったんだけどさ、経過に長い時間がかかり過ぎんだろ? 苦しむの最後の方だけってのも気にくわねえし。……お前を提供してやれなくて、学者の皆さんには申し訳ないぜ。なんせ67年ぶりのすたれた病気の復活なのにさ。誇れるよな」  満足気に僕を見下ろして、魂を悪魔に売ったあきとは嗤う――僕に捕まる事すら自らの計画どおりに、僕を罠に嵌める為だけに自らの人格さえ演じきったあきと。その、おぞましくも美しい微笑み……。 「おれはお前の最期を見届ける気はない。勝手に死ね。お前の殺したヤツらに見守られて」  すらりと柄を掴んだ両手をいっぱいに前に伸ばし、あきとは白刃の煌めく反射を見ている様だった。  今は狂った光を目の奥に閉じ込めて柔らかく笑ったあきとは、無垢な魂を同時に善と悪に染めたあきとは、最後には矢張り鮮烈な眩しさで僕の目に灼きついた。比類なき真摯な瞳を大切な兄に据えたあきとは、静か過ぎる程静かに続けた。 「おれはきれいな兄貴とは違う。おれは憎悪の塊だ。お前にとっての病原菌、ラットと同じ――まき散らしてやるよ、おれにふさわしい汚物を」  告げる先から、手が閃いた。真っ直ぐ前に伸ばしていた手首をくいっと内側、自分の方に向けて、あろう事か刃の切っ先を自分の腹部に向けて――  まさか、と目を見張る僕の前、あきとは、自分の腹に刃を向けたあきとは……  ――躊躇いもみせずに、勢いよく、長い刀を自分の腹に呑み込ませた―― う そ だ ……………………  叫びたいのに声の出ない僕の喉からはぜいぜいと苦し気な音しか洩れはしない、ちらりと僕を見たのかあきとは血を吐く唇で笑い、突き立てた刀を下に薙ぐ様に手を動かし、更に大きく自分の身を裂いた。  絶叫。激痛に混じるのは興奮なのか、気を失う程に強い筈の痛みを勝利の悦びに昇華させでもしたのか、吠えるあきとは尚笑っていた。  僕の方が気を失いそうになっていた……ビシャッ、と血液だけではない何かが顔にかかって、僕は目を閉じた。  ……束の間、僕は本当に意識を飛ばしていたらしい。雄叫びの様な、あきとの長くはっきりした声が、ずっと頭にあった。――今は、もう聞こえない。僕は虚ろな目をあきとに合わせようとした。  むっとする血の匂い、と同時に何か独特に酸い様な違う匂いが、それと混じって強烈な吐き気をもたらし、僕の頭を痺れさせていた。  ――目に入った光景。薄紫にどす暗くぬめる、腸菅、らしいそれはあきとの手によってか体外に引きずり出されるだけ出され、それも刀で裂かれている……  腸を切り裂く長剣を内部で途中で止めた姿勢に、頭を垂れたあきとの命は途絶えているらしかった。余りにも凄惨な最期。余りにも壮絶な復讐劇の終焉。  動かせない体が、呪わしかった。あきとの体を整えて、血や汚れを全て綺麗に拭き取って、僕はその体を抱き締めてあげたかった。兄の為に総てを投げ討った尊い彼を。今ならまだ温もりを保っている彼の体が、徐々に冷たくなっていく過程を感じながら。  ……僕は、本当にあきとを愛していたらしかった。他のどんな相手にも感じた事のない愛着。喪失がこんなにも痛く身を心を切り裂く、(いた)く哀しく、激しく後悔をもたらすものだなんて思いもしなかった。  あきと。声に出したくて、僕は喉に力を入れる。あきと。呼び掛けたくて。呼べば、うるせえと言いた気な目で僕を見てくれそうな気がして。  あきと。あんなに繰り返したのは、本当だったのに。心の底から、僕は君を愛していた。僕が君を見付けたのは偶然だと僕は思っていた、でも実際は君が仕組んだシナリオのとおりだったんだね。  あきと……初めて愛したひと。初めて殺せなかったひと。死なせたくなかった、死んで欲しく、なかったひと……。  死んだ君なんか、要らない。生きて笑う君を、色んな顔で色んな触れ方で色んな反応をして色んな言葉を放つ君を、この手に抱いていたかった。心地好い暖かさ、子供みたいな日向の匂い、まるで測って造られた様に僕の腕に丁度良く収まった体。  あきと。あきと。誰も居なかった僕の心の中に入ってきてくれた。偽りの策略であろうと。僕に笑顔を向けてくれた。虚構の捏造であろうと……。  ……あき、と……

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