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第7話
微睡みに傾いだ頭が、こつんと何かにぶつかった。僕は目を覚ます。
僕の頭を肩で受け止めてくれたあきとに、僕は笑い掛ける。
「ごめん、寝ちゃってた。……喉かわいてない? コーヒー淹れるね」
頭の中にさんきゅ、と言うあきとの返事を聞いて、僕はソファから立ち上がった。自分では上手く立てないあきとの体を支えて立たせながら。
「今日は石川先生が来る日か……。薬はもう要らない、って言わなきゃね。なくてもちゃんと眠れるからって」
それがいい、と賛同してくれるあきとを誘導して歩きながら、僕は両親が亡くなってからずっと、三ヶ月に一回往診と言う名の顔見せに来てくれる律儀なおじいちゃん医師が返すであろう驚きを想像して、おかしくなってしまう。
眠れないと偽って手に入れていた睡眠薬は、もう必要ない。もう僕には眠らせたい相手は居ない。僕自身の浅く淡い眠りを改善する必要もない。あきとが居るから。いつでも直ぐ傍に。
どんな時であろうと一瞬でも離れていたくなくて、彼の右手と僕の左手は手錠で繋いである。あきとは今僕の手を借りないと何も出来ないし、仕方ねえなと照れた様にあきとが言ってくれたから、これは僕達の自然な形だ。石川先生が来る時だけは、あきとには隠れていて貰わなきゃいけないけど。
――心は、不思議と穏やかだった。死んでしまったあきと。近い内に死を迎える僕。
腸を何とか体内に納めて、傷口を丁寧に縫い付けて、清めたあきとの体を蝋で綺麗にコーティングした。濁ってしまった水晶体だけにはどうしても加工を加えられなくて、それは一番大事なあきとらしさを失わせてしまっていたけれど。
愛するひとの眼球を取り出して誰かのと入れ換える、なんて事はしたくなかった。そんな冒涜は。
こうして生前の綺麗な姿に見劣りないあきとと一緒に過ごしていられる。僕にはもう、それだけで充分だった。
あきとの体を自分にもたれさせながら、淹れたコーヒーの香りを楽しんでみる。以前以上に固形物の摂取を受け付けにくくなった体は、ブラックで飲んでいたコーヒーにミルクと砂糖を加えさせていた。
とれなくなった栄養を補おうとする生体反応なのか、単にあきとの真似をしているだけなのか。吐きそうな程甘ったるい、あきとの好んだ味。それが、今の僕の味だ。
――僕の命の期限は、多分、文献から推測すると恐らく二・三ヶ月。傷口が脳に近い程、発症が早いらしいから。
ラットを介して僕の胸の傷から侵入したウイルスは、恐ろしくじっくりゆっくりと脳神経組織に向けて進み続けているらしい。僕のイメージでは、傷口から入った瞬間に発症しそうに思っていたけど。
初めは風邪の様な症状から、次第に水を飲むのでも喉が痛くなり、風が吹くのや物音がするのを恐がり、不安や興奮、錯乱、幻覚に脅え、全身及び脳神経の麻痺から昏睡に陥り、最後は呼吸障害によって死に至る、らしい。
一度発症してしまえば、致死率百パーセント。治療法もなく、必ず死に至る病気。あきとが言ったとおりだ、どの文献にもそうあった。けれども、元から助かる気のない僕には、そんなのはどうでもいい情報だった。
あきとが決めた事だから。僕にそう死ねと、あきとが告げたから。苦しみ悶えて死ねと。だから僕は、厳かにそのとおりの終わりを迎えるつもりでいる。
調べたのは、いつどんな症状が起こるか分からなくて、あきとに何かしてしまったりしない様に気を付ける為だ。事前に知識があれば、醜態を晒してもあきとには害を及ぼさない様に防ぐ事が出来るだろうから。
もしも感染が成立していなくて、いつ迄待っても一つの病変も現れないならば。その時は、あきとと同じ方法で命を絶つと決めている。
死ぬのは恐いか、とあきとは僕に聞くけれど――いつも、僕はそれにだけは答えを返せずにいる。恐怖から命乞いをしてきた人達を、何人無情に殺したか。そんな僕に、恐いなどと甘えた事を言う資格はない。
君は実に堂々としてたよね、と僕は答えをはぐらかす。君は恐くはなかったの?
おれ? あきとはろくに考えもせずに答える、おれにはさ、お前へのメッセージがあったじゃん。怨みや悔しさを死んで見せつけてやるっていうさ。
――一人で二役の自問自答をして、気付いた事がある。僕は、殆どもう生きてはいない。あきとの死を目にしたあの瞬間から。何も頭に残らない、何も手をかすめない。全てが虚ろだ。
早く死にたいよ。君は天国、僕は地獄、あいまみえる事はないだろうけれど。
君が僕のせいで苦しんだ分を、今から死ぬ迄に僕が味わうちっぽけな苦しみだけで補えるとは思わない。この罰は、きっと何世代にも渡って継承されていく。
それでいい。長い転生を繰り返せるなら、いつかは君に赦されると信じたい。
君だけじゃない、君のお兄さんのはるとさん、その他僕が捕まえ命を奪ってしまった人達。
僕が傷付けた全ての人達に祈り、詫び、悔い、贖罪を捧げたい。そうしたら、再び君と出逢えるだろうか。僕の想いの強さは、僕を君の魂迄辿り着かせてくれるだろうか……。
だから、うん……死ぬのは恐くないかもね。君が死に方を示唆してくれたしね。
僕が笑うのに、頭の中のあきとも笑ってくれた。表面の蝋を剥がす訳にはいかないのでぎゅっと抱き締める事も指を繋ぐ事すら出来ない愛しい人の肩口に、せめて僕は軽く頭をもたせかける。
……愛しいひと。溌剌とした内部からの生命力が、輝きを際立たせる人だった。僕への憎しみをその糧として、見事に二重の人格を使い分けて。
そしてまだ、君の復讐は続いているんだね、あきと。君は僕の死を放棄した。とても賢明な選択だ……お陰で、僕は狂う事も出来ずに居る。
早くウイルスが脳の組織に到達する事を願う。あきとが自分の死をもって僕に縛り付けた呪い。手に入らない君を欲する苦しさ、今はそれこそが僕の終わりのない業だと分かってはいても、胸を掻きむしり――肌を肉を引き裂き抉りたい程に、耐える事が辛い。
あきと……僕は無機質な彼を見上げる。君は、これで満足なんだね?
……答えはない。見つめる瞳も返される笑顔も、暖かな体温も触れる柔らかさも。流れる僕の涙すら、表面の蝋に弾かれてあきとには交わらない。
――冷たい静寂。取り残された虚無感。
孤独。
そうして、僕は自覚したくない事実に思考を占領されている。あきとは、本当に分かり易い位にはっきりとした人だった。
……最後迄、君は一度も僕の名を呼んではくれなかったね……
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