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第3話 パンドラの箱

 ぺろり。俺は口寂しくて、上唇を舐める。でもそれはお腹が空いてるからじゃなくて、セツの唇が恋しいから。  去年のクリスマス、俺たちは初めてキスをした。  キスってなんなのか、なんでしたくなるのか、セツに教えて貰おうと思ってたけど、話す前にキスされた。  セツの舌は甘くて気持ちよかった。無意識に舌を絡ませて甘噛みすると、セツは上ずった吐息を漏らし、硬直する。  セツも俺も、興奮していたのは確かだと思う。俺にとっては、未知の感覚。  どうしていいのか分からないけど、組み敷いたセツをどうにかしたい。そんな、矛盾した感覚に囚われていた。  だけどドアをノックされて、それは中断させられる。  ショーケースには、小鳥遊の人間は来ない。誰かに見つかったら、騒ぎになるだろう。セツはクローゼットに隠れて、来客をやり過ごしたあと、名残惜しく母屋に戻っていった。 「……ジー。ベンジー、聞いてる?」 「あっ。ごめん聞いてなかった」  ずっとセツのことを考えていたけど、今俺の目の前にいるのは、パンドラ。ショーケースで一番の古株で、十八歳。兎の獣人だ。  彼は真っ白の髪の間から垂れた耳をひくひくと動かし、赤い目をつり上げて怒ってみせる。だけどベビーフェイスだから、ちっとも恐くはないのだけれど。 「もう、質問しておいて聞いてないってどういうこと?」 「ご、ごめん」  パンドラとは仲がよくて、たまに部屋を行き来する。今日も彼が来たから、セツに訊けなかった質問を、代わりに彼に訊いたのだった。  シングルベッドの上にふたり座って、言葉を交わす。クリスマスに訪ねてきたのもパンドラだった。 『キスってなに?』  その答えを知りたかったのだけど、脳裏にはセツが浮かんでしまう。 「何処から聞いてなかったの?」 「うーん……最初から……かな」  パンドラの雷が恐くって、もにょもにょと口ごもる。 「呆れた」  でも怒られはしなくてホッとした。パンドラは怒ると恐い。 「じゃあ、最初から。キスっていうのは、愛情表現だよ。家族とか、恋人とかとするんだ。好きなひととすることだよ」 「好きって、どういう好き?」 「好きは好きだよ」 「でも、家族と恋人は違うだろ?」 「どっちのキスのことが知りたいの?」 「う……うーん」  俺は考え込んでしまう。俺を創ってくれたセツは、家族だ。でも大それた望みだけど、恋人になりたいとも思う。  ちょっと考えて、おずおずと口にした。 「恋人、かな」 「じゃあそれは、恋愛感情の『愛してる』ってこと。キスもその先も、色々したくなるのが恋人だよ」  なんだか分かったような、分からないような。色々ってなに? とも訊きたかったけど、話がややこしくなりそうでやめておいた。  俺はまだ二歳だけど、もう大人のパンドラはニヤリと口角を引き上げた。 「ベンジー……キス、してみたいの?」 「え、あ、いや」  もうしたなんて、言えない。小鳥遊財閥の四男のセツと、創作物の俺が恋愛をするなんて、考えられないことだった。  もし猪狩さんに見付かったりしたら、引き離されてしまうかもしれないと想像して、背筋が寒くなる。  考えていなかった。あのときは、セツの方からキスしてきたから。  俺が照れてるんだと勘違いしたパンドラが、上目遣いでグッと顔を近付けてきた。   「ボクとしてみる?」 「え」  断る間もなく、下から唇を吸われた。リップノイズが弾ける。  セツとキスをする前なら、好奇心からそれを楽しんだかもしれない。でも思わず俺は、毛を逆立てて威嚇していた。 「やめろ!」  パンドラは驚いて身を引いたあと、頬を紅潮させて声を高くした。 「なんだよ! 減るもんじゃなし。ベンジーはボクのこと嫌いなの?」 「嫌いじゃないけど……好きなひとが居るから」  そう言ったら、パンドラは傷付いたような顔をした。 「そう。分かった。ボク帰る!」  バン! と大きな音をさせて部屋のドアが閉じられた。その直前、パンドラのポケットからなにか転がり出るのを見付けたけど、とても声をかけられるような状況じゃない。  なんでパンドラは、あんな顔をしたんだろう。そう考えながら、ベッドから降りて小箱を拾う。  透明なプラスチックの箱には、俺の好きなかぼちゃの香りがするクッキーが入っていた。 『ベンジーへ』  そう書かれたカードが見える。  俺に? 今日は誕生日でもないのに。不思議に思って箱をひっくり返したりして眺めていると、すぐにノックの音がした。   「パンドラ……」  ドアを開けると、思いがけないサプライズが待っていた。 「セツ!」 「シッ」  クリスマスのあのときみたいに唇の前に人差し指を立てて、セツが滑り込んでくる。  思い切り抱き締めると、久しぶりにセツのいい匂いがした。 「ごめん、ベンジー。急に来ちゃって」 「ううん、嬉しい。俺、毎日でもセツに会いたいしキスしたい」  無意識にベッドの方へセツを引っ張る。押し倒し、唇を合わせようとしたが、仰け反って避けられる。  晒された喉仏をペロリと舐めると、掠れた声が上がった。 「ベンジー、駄目、だ」 「なんで? セツ、気持ちいいときの声出てるのに」  鎖骨のあたりにセツの手のひらが当たって、グッと力がこもる。 「や、忙しくてお風呂入ってないから、汚い」 「汚くないよ。いい匂いがする」 「ア、や」  耳たぶを甘噛みするとやっぱり気持ちのいい声が上がる。 「あ、ァン、ベンジー……ベンジー、駄目!」  なんでそんなことを言うんだろう。凄く気持ちよさそうなのに。 「ごめん。二時間だけ仮眠するって言って、抜けてきたんだ。バレンタインだし」 「バレンタインって、なに?」  俺がきょとんとして訊くと、セツは少し笑った。 「好きなひとに、プレゼントを贈る日だよ」 「え。俺セツのこと好きだけど、なにもあげられない……」  耳をうな垂れて悲しむけど、やっぱりセツは微笑んだ。横向きに丸まって、色素の薄いはしばみ色の目を閉じる。 「いいんだ。ぼくも……なにも、あげられないから……」  そう言って、セツは寝息をたて始めた。俺も隣に横になって、セツの仄赤い唇をそっと指でなぞる。  眠るセツの顔は、目の下にうっすら隈があるけど幸せそうで。俺も同じように微笑んで、まぶたを閉じた。  好きなひとにプレゼントをあげる日なら、セツが会いに来てくれたことがプレゼントだよ。向かい合ったセツの温もりが、俺の身体も心もあったかくした。

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