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第3話
薫に惹かれた人間は身を滅ぼす。
『昨日どこいたの?』
『なんでメール無視した?』
『浮気してるってわかってんだぞ、さっさと携帯よこせ!』
ある者は嫉妬に狂って暴力を振るい、ある者は独占欲が高じて束縛に走り、ある者は精神を病んで酒や薬に溺れ、いずれも破滅していった。
どうしてそうなるかはわからない。薫は普通にしているだけ、ただそれだけで周りが勝手に壊れていく。
あの男もそうだ。
「……出るんじゃなかった」
着信拒否しておけばよかった。機種変の時に番号を削除し、今の今まで忘れていた。薫にとってはどうでもいい人間だ。
マルガリータを飲み干し、サッと洗ったグラスを伏せて置く。その後は早めに切り上げ、バックヤードのロッカールームに引っ込む。
ロッカーを開けた瞬間、上段の紙袋が目に入る。来る途中に買って来たものだ。
ブランドロゴを印刷した紙袋をまさぐり、熱心に見繕った中身を取り出す。
「喜ぶかな」
丁寧な手付きで返し、さっさと帰り支度をする。車の運転席でLINEを確認した所、ここ四時間内のメッセージは既読済みで捨て置かれていた。『帰ります』とスタンプだけ送っておく。
ドアを開けた直後、玄関に揃えて脱がれたパンプスに違和感を覚える。
嫌な予感に急き立てられ、慌てて靴を脱ぐ。向かって右側、リビングに通じるドアを細く開けて覗き込む。カウチベッドで折り重なった影が蠢く。下に寝ているのは裸の女、上にいるのは……
「やめないで。もっとシて」
しなやかな脚を押し広げ、口で愛撫する男の姿に息を飲む。
「何してほしいんだ」
「言わせないで」
「すげー濡れてきた、指も入れてねえのに」
「クンニ上手。他の子にもやってんの」
「お前だけ」
風祭遊輔は上半身裸だった。リビングの明かりは消え、暗闇に背中が浮かぶ。
「よくなりてェなら集中しろ」
「あっァっンあっあ」
股間に顔を埋めて蜜を啜り、唇と舌でほぐす。官能的な声の高まりに比例し、覆い被さった背中が動く。女が遊輔の頭を抱え、息を荒げて囁く。
「どうかした?」
「何?」
「手の火傷。根性焼き?」
「寝タバコで焦がした」
「ばっかじゃない」
骨ばった右手を捕らえ、いやらしく指をしゃぶる。
「気が散っからやめろ」
「続けてよ」
くぐもった笑い。しめやかな衣擦れの音。互いのこめかみを啄んでじゃれあい、くすくす囁き交わす。
「いい部屋引っ越したね。お金持ってるんだ」
「まーな」
「記者ってもうかんの」
「スクープ物にすりゃボーナスがっぽり」
「何追っかけてんの」
「厚生省の大物と医療ミス起きた病院の癒着」
「ラズベリー賞狙える?」
「そりゃクソ映画に贈る賞だろ、マスコミが目指すのはピューリッツァー賞」
「イグノーベル賞の方が面白いよ」
「面白え面白くねえの問題か」
「それとったらタワマン住める?」
「住める住めるワンフロアぶち抜きで。一緒にジャグジー入ろうぜ」
「やっぱ寝室行かない?」
「鍵なくしちまって」
「なんで寝室に鍵掛けてんの」
「大事なもんしまってんだよ」
「たとえば?」
「これまで書いた記事の資料」
「怪しい~。見られたらヤバいもん隠してんじゃないの、エグいSМグッズとか」
「道具に頼んなくたってイかせられる」
「ンっ、ぁっ、いい」
「感じてんの?股びしょびしょ」
「息当たるから喋んないで……」
そろそろ頃合いだと判断し、壁のスイッチを押す。
「水臭いなあ、お客さん来てるなら紹介してくださいよ」
「「ッ!?」」
リビングの全容が暴かれ、前戯を妨げられた男女が凍り付く。
「誰!?」
「家主ですが」
「ここ遊輔の……」
ブラホックを留めた女が表情を豹変させ、音速で顔を背けた遊輔を睨む。
「だましたの?」
「違えよ、本当に住んでんだって」
「リビングに間借りしてる事を住んでるって表現するなら間違いじゃないですけど」
クッションが飛ぶ。
「全然変わってない!相変わらず嘘ばっか!」
「話聞けって!」
「死ねよパチカスヤリモク眼鏡!」
玄関まで追い縋るも和解ならず、腹立ちまぎれにゴミ箱蹴倒す居候を、不機嫌に腕組みした世帯主が待ち受ける。
「もー三十分遅く帰ってこい」
「十分じゃ足りませんか」
「早漏か」
「マンション譲渡した覚えないんですけど」
「嘘も方便」
興醒めした様子で髪をかき上げ、外箱の角を叩いて煙草を抜く。いかにも億劫げな受け答え。
「帰ったの気付きませんでした?知ってて続けたんですか、いいご趣味ですね」
「防音しっかりしすぎて聞こえねー。家賃高えのも考え物だな」
「口使うのに忙しかったんじゃないですか」
「ご明察」
開き直って煙草をふかす。貞操観念の緩さと羞恥心の薄さは比例するのか、情事を見られた後ろめたさは微塵も感じられない。
「人の留守中に女性引っ張り込んで乳繰り合ってんですか」
「会って飲みゃそーゆー流れになる」
「俺が買ったカウチでさかるならホテル行ってください」
「反省する」
「胡座で?」
「正座に直りゃ文句ねえ?」
「二十点」
にっこり笑って咥え煙草をもぎとる。
「五十点になりました」
遊輔がうんざりする。
「何すりゃ百点になんだよ……ファブリーズ?」
「換気もお忘れなく」
「開かずの間にゃ一切立ち入ってねえぞ」
「どうかな。ピッキング前科あるし」
「ありゃお前を助けるために、」
無造作にシャツを放り、もぬけの殻の玄関を振り返る。
「誰ですあれ」
「昔の女。何年か前付き合ってた」
「元カノをセフレキープとか見損ないました」
「後腐れねェし」
「後腐れのあるなしで女性選ぶの控えめに言って最低です」
「ぐ」
ご老公の印籠の如くスマホを突き付け、『帰ります』と吹き出しに入ったうさぎのスタンプを示す。
「証拠隠滅の時間はあったはずですけど」
「見てなかった」
「厚生省の大物追いかけてるんですか?」
「……見栄張った」
不貞腐れてシャツに袖を通す。
カウチに面したローテーブルには新品のコンドームと飲みかけの缶ビール、競馬欄に○×チェックしたスポーツ新聞とゴシップ週刊誌が放置されていた。
その中から未開封の小袋を選び取り、冷ややかな感想を述べる。
「避妊して偉い」
「返せ」
「別のメーカーに乗り換えた方がいいですよ、最中に破けたとかで低評価付いてました」
「マジ?」
「シャワー行ってきます」
横を素通りしバスルームへ急ぐ。脱衣所のドラム式洗濯機に服を投げ込み、磨りガラス入りスライドドアを開け、適温に調節されたシャワーを浴びる。
渦を巻いて排水溝に流れ込む湯。タイルの溝に張り付く長い髪の毛に舌打ち、水圧で押し流す。
フックにノズルを掛け、キツく蛇口を締める。脱衣所でパジャマ用のトレーナーに着替え、洗面台の前に佇む。
「やっと消えた」
ツッと指を滑らし、痣が癒えた首筋をなぞる。鏡に映る像が歪み、中学生の少年にすり替わる。
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