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第4話

十四歳のある朝の出来事だ。 父はドラマの撮影で不在。母は朝食の準備をしており、騒々しいミキサーの音が響いていた。 「おはよ。顔洗っちゃいなさい」 「うん」 健康志向の母は毎朝スムージーを作り、オーガニックな朝食を用意した。 洗面台の蛇口を開く。迸る水を手で受け顔を濯ぐ。 濡れ髪の雫をハンドタオルで拭い、鏡と向き合った瞬間、首の痣が目に飛び込んできた。 夢じゃなかった。 「あんたなんか死ねばいいのに」 凄まじい形相の母に首を絞められた。夢だと思った。思いたかった。途中で意識が途切れた。目が覚めたら朝で、母は台所にいて、ミキサーがうるさくて 洗面台に突っ伏し少し吐く。苦い胃液が糸を引く。 実際の所、母は何も言ってない。深夜になるのを待って息子の部屋を訪れ、気を失うまで首を絞めただけだ。それも未遂で済んだ。殺意の立証は難しい。 動機は嫉妬。 夫を寝取られた復讐。 どんなに否定したくてもハッキリ証拠が残ってる、首周りの痛々しい鬱血痕が現実を物語る、青黒い色素が定着した痣は母の指の形状とぴったり重なるはず。 口が苦い。首が痛い。気持ち悪い。膝から下が挫けて座り込んでしまいそうだ。 「遅刻しちゃうよー」 ミキサーの騒音が止み、台所の母が呼び立てる。義務感だけで起き上がり、うがいをすませて部屋に戻る。シャツに袖を通す。一番上までボタンを留めて痣を隠し、スタンドミラーに映す。 ベッド脇のコートハンガーには、ネイビーブルーの前襟に白いラインが入ったブレザーが掛かっていた。 制服に着替えてダイニングに行けば、タンブラーにスムージーを注いだ母が、若作りな笑顔で出迎えた。 「遅かったね。食べちゃいなさい」 「いただきます」 席に着く。朝食が始まる。 「父さんは」 「信州ロケですって。明後日には帰ってくるそうよ」 「そっか」 「お母さん午後からジムだから留守番お願い」 「わかった」 「ちゃんと塾行きなさいよ、成績下がってるんだから」 「うん」 「昨日は眠れた?」 「なんで。寝れたよ」 「ならいいけど……最近寝不足気味でしょ、心配なのよ。ウチは中高一貫の私立だから受験は関係ないけど」 「ホントに大丈夫。ネトゲのイベント走ってて、うっかり夜更かししちゃった」 ベランダの雀の囀り。掃き出し窓から差し込む陽射し。 「最新のゲーミングPC気に入ったみたいね」 「画素数多くて最高」 「そういうのよくわかんないけど」 「前のと処理速度段違い。次は自分で組み立てる」 「できるの?」 「父さんに教えてもらった」 「ああ……思い出した。小学生の時だっけ、夏休みの自由研究で自作PC提出したでしょ。早熟なお子さんですねって先生に驚かれちゃった」 「自作ならどこに何の部品使ったかわかってるからメンテ費用浮くし、そっちの方がリーズナブルだって父さんが」 味覚が死んだ。朝食の味がわからない。機械的に咀嚼と嚥下を繰り返し、辛うじて話を合わせる。 寝不足なのは父のせいだ。母は知ってて知らないふりをする。 「あなたには甘いのね」 母が目玉焼きを切り、ドロリと濃い黄身が流れ出す。 「部屋の掃除してね」 「わかってる」 「シーツ取り替えるのよ」 ガラスボウルによそわれたサラダ、こんがり焼けたバタートースト、半熟の目玉焼きと付け合わせの無脂肪ベーコン、フレッシュなグリーンスムージー、化学調味料無添加にこだわり抜いたヘルシーな献立。 食欲が減退する。スムージーに口を付ける。 「何入ってるの?」 「小松菜と完熟バナナ。牛乳はオーツミルクに替えたわ、そっちのほうが栄養価高いらしいの。おいしい?」 「まあまあ」 「ひっかかる言い方」 「ヨーグルトの方が好きかな」 「明日はアーモンドミルクね」 義理で一口飲み、タンブラーを静かに置く。毒を盛られたかもしれない。砒素は無味無臭だ。混ぜられても気付かない。 作り笑いでモノを飲み下すたび喉が痛む、何かが閊えたような異物感が膨らんでいく、糊の利いた立襟の刺さる首が疼く。 思春期の息子が母親の入室を嫌がるのは自然なこと。何もおかしくない普通の会話。子供の自主性を重んじるのが彼女の教育方針、言葉の裏を読む方が間違ってる。 慢性的な寝不足の原因が父にあっても。 父が来ない日も父の気配に怯えて寝付けず、ふらふら登校する羽目になっても。 ねえ母さん、昨日の夜部屋に来なかった? 俺の首絞めなかった? 本当に知らないのか。知らないふりをしてるだけなのか。喉元まで出かけた質問を飲み下し、努めて平静を装い食事を続ける。向かい席の母は頑なに目を合わせず、ダイエットに失敗し、倍近くリバウンドした友人の話をしている。薫はミニトマトのヘタをとって相槌を打ち、笑いながら口に運ぶ。 誕生日や祝日にプレゼントされ年々増えてくアダルトグッズ。隠し場所は机の一番下の引き出し。鍵は父が管理している。 一昨日は新品のボールギャグとベルト型バイブを試された。ギャグを噛まされた口から大量の涎を垂れ流し、陰茎に装着されたバイブに悶える息子の痴態を眺め、父はマスターベーションに耽った。 先週は乳首と亀頭と前立腺をローター四点責め。その前の週はニップルポンプで乳首開発。その前の前の週は股間にジッパーが付いたラバー下着を穿かされアナルビーズを限界まで……。 心底鈍感な人だったのか、鈍感なふりをしてただけか、結局わからずじまい。父の死をきっかけに母とは疎遠になり、現在はほぼ連絡を取り合ってない。 母の旧姓を使うのは世間を欺く為。それ以上に父の姓を名乗りたくないから。 薫の父、蓮見尊は俳優だった。インタビュー記事には必ず「愛妻家で子煩悩」と書かれていた。 父は色々なことを教えてくれた。 自作PCの組み方を教えてくれた。自転車の乗り方を教えてくれた。フェラチオを教えてくれた。オーガズムを教えてくれた。精通のメカニズムを教えてくれた。調教すれば男も乳首でイケると教えてくれた。ニップルポンプを使われた翌日は勃ちっぱなしの乳首が肌着に擦れて痛痒く、死ぬほど恥ずかしかった。 快楽に抗いきれない体の反応を呪った。何も気付かない母を憎んだ。 父は愛妻家を演じる役者だった。家の中でも外でも演技していた。良き父良き夫の芝居は完璧で、プロデューサーやマネージャー、共に暮らす家族さえも本性を見抜けなかった。 夜寝る前にはハーブティーを淹れた。リラックスできるよと唆され、母はそれを飲んだ。 『母さんは起きないよ。今頃はぐっすり夢の中だ』 夫が睡眠薬を混ぜたのを知らず。 『声を上げてごらん』

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