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第21話
長い夜が明けた。
視界の中心に切り込みが入る。枕元に伏せたスマホを表返す。時刻は午前九時過ぎ。
視線を泳がし遊輔を捜す。目の前にいた。こちらに背中を向け爆睡してる。
「朝ですよ」
「行けっあと三馬身……最終コーナー曲がって……きたきたきた……」
夢の中でレースに賭けているらしい。骨の髄までギャンブル狂だと呆れて肩を揺する。邪険に手を振りほどかれ、ぐずる顔を覗き込む。しけった髪は乱れ、目の下に濃い隈が浮いていた。
涎が染みた枕に突っ伏し、しょぼしょぼ目を擦る遊輔に爽やかな笑顔で挨拶する。
「おはようございます。体調は?」
「ぼちぼち」
「違和感は?」
「腰だりぃ」
「正常ですね」
薬が抜けているのを確認し安堵する。ドラッグの成分は体液と一緒に流れ出ていったらしい。
「何時?」
「八時です」
「もっと寝た気分だった」
大口開けてあくびする。首筋にキスマーク……行きの電車で目に留めた浮気の名残り。胸の内を嫉妬が焦がし、丸い痕を吸い立てる。
「よせ」
「気分じゃありませんか」
「くたくたなんだよ誰かさんのせいで」
全身に散った夥しいキスマーク。首筋、肩甲骨、胸板、腹筋、脹脛……デリケートな部位に定着した色素が映え、内出血の痛々しさを際立てる。
「とっととシャワー行ってこい」
「覗かないでくださいね」
枕を投げられた。ピロウトークなど期待すべくもない素っ気なさ。遊輔らしいと言えばらしいと言える。
「中華街寄って帰ります?朝粥の美味しいお店あるみたいですよ、食べログ評価も上々」
返事はない。寝直したのだろうか。コックを締めてシャワーを止める。タオルで体を拭いた後、バスローブに袖を通す。
洗面台に放置された眼鏡を回収し部屋に戻れば、ベッドの上に胡坐をかいた遊輔が、薫のスマホを手にしていた。
やっぱり。
無言で寄り添いスマホを奪取。
「テメエまだ懲りて、」
猛然と抗議を申し立てた遊輔に、ロックを解除したスマホを渡す。
「……」
拍子抜けした様子で黙り、すぐまた表情を険しくする。薫は首に掛けたタオルで髪を拭き、隣に腰を下ろす。
「消し方知ってますよね。わかんなかったら聞いてください」
遊輔は疑り深い。自分で削除しなければ安心できないはず。薫が見守る横で動画にカーソルを合わせ、削除ボタンを押す。あっけない。これで終わり。
「金輪際人のハメ撮りオカズにすんな」
「前付き合ってた人たちとはそういうの普通にやりとりしてたし、遊輔さんのも欲しくなって」
遊輔の眉が歪む。
「言い訳?」
「じゃなくて。いや、そうかもしれないけど。もし、もしですよ。遊輔さんが急にいなくなっちゃったとしても、貴方を抱いた動画が残ってるんなら、喪失感をだましだましやってけるんじゃないかって思ったんです」
「保険掛けたってか」
「ライン超えました。怒って当然だ。軽蔑してください」
「何回ヌいた?」
「十回以上」
「多いな」
「負担かけるから毎日ってわけにいかないし、そんな時は動画で慰めて」
「お優しくて涙がちょちょぎれるぜ」
携帯を突っ返す。
「俺も元カノのエロ画像持ってたし。お互い様ってことで、今回は許す」
マットを叩いて近くに来いと促す。
「ちゃんと洗ってきたな?」
「はい」
「よし」
唐突にバスローブをはだけ、股間に顔を突っ込む。動揺で腰が引ける。
「この為に朝イチでシャワー行かせたんですか?どんだけ……」
「やられたらやり返す。じゃねえと気持ち悪ィ」
「負けず嫌いすぎる」
両手に吐いた唾を練り、ゆるゆるしごいて感心する。
「寝て起きたら完全復活かよ。若いっていいな」
遊輔がすすんで奉仕するのは稀だ。薫も強制しない。今日は特別、仲直りのしるしに。
「ん、む」
根元に左手を添え、右手で擦りながら含む。熱い粘膜に包まれた肉が震え、体積が膨らむ。刺激的な眺めに昂り、上下に動く頭を抱える。唾液を捏ねる音が下品に響き、次第に息が上擦っていく。
「上手くなりましたね」
「何事も慣れ」
最初の頃は奥まで咥えこんでえずいていた。今は随分マシになった。固さを増したペニスが反り返り、恥骨の奥に快感が渦巻く。
「ここで残念なお知らせ」
息が当たってこそばゆい。遊輔が笑いを堪える。
「あちこちいじりながら言葉責めしたよな?お生憎様、殆ど見えなかったよ」
「……あ」
行為中、遊輔は眼鏡をしてなかった。彼は重度の近眼だ。みるみる赤面する薫に摺り寄り、意地悪くまぜっ返す。
「なんてったっけ、俺に抱かれてるとこちゃんと目に焼き付けて~だっけ?」
「い、言わないで」
「色んな体液でドロッドロになったはしたない顔もツンと尖った乳首も鍛えた腹筋も」
「すいません調子乗りました思い出さないでください」
「ぜってえ忘れてやんねえ」
絶頂の瞬間が近付く。
「ッ、出ます」
「くれ」
手と舌が器用に動き、窄めた唇が亀頭をねぶる。薫が低く呻いて射精に至り、遊輔がまずそうに飲み下す。
ワードローブを開け、ハンガーに吊るされたシャツと背広を取り出す。お目当ては煙草。箱の角を叩いて一本摘まみ、百円ライターで着火し、深々と吸い込む。
「~~っぱ口直しにゃこれよ」
「自分で飲んどいて」
「ん」
遊輔が箱を傾けて差し出す。
「やめときます」
「そ」
「吸い殻にキスするとこ、本当に見てたんですか」
「やりそうじゃんお前」
「人が悪いなあ」
咥え煙草の笑顔に釣られて苦笑し、身支度を整える。シャツのボタンを留めてズボンを穿き、眼鏡を掛けた遊輔が振り返る。
「帰るか」
電車を乗り継いで東京に戻り、マンションに帰宅する。薫がリビングのカーテンを開け放ち、掃き出し窓から光を取り込む。遊輔は冷蔵庫を漁り、ペットボトル入り炭酸水を取り出していた。
「まあ見てろ」
キヨスクで買った缶の栓を抜き、楕円の飴玉をグラスに投下。そこに目分量で二等分した炭酸水を注ぎ、マドラーでかき回す。
「ドロップスの炭酸割り。お子様でも飲めるノンアル」
グラスの片方を薫に渡す。
「クレオパトラは酢に溶かした真珠を振る舞ったらしいが、持ち合わせがなくってさ。こっちの方が見た目キレイでうまそうだろ」
遊輔は薫の昔語りを覚えていた。故に思い出の情景を再現せんと、サプライズを仕掛けた。
「乾杯」
グラス同士を軽く合わせ、ドロップスを入れた炭酸水を味わい、独りごちる。
「俺用の口直し考えてくれたんですね」
遊輔には甘すぎるらしく、中身はなかなか減らない。ベランダには雀が遊びに来ていた。遊輔がぶら下げたグラスを揺らす。
「あのさ。手帳に書いてあったUの字、俺のことだよな」
「……」
「後で思い返して合点が行った。Uの字書きこまれたレシピ、全部好きなカクテルだった」
「ローマ字表記はイニシャルYが正しいはず」
「往生際悪い」
顔が火照る。
「……そうですよ、遊輔さんがよく飲むお気に入りにマークしてたんですよ。スッキリしました?」
「隠すこたねーだろ別に」
「まだまだ理想に届きません。改良の余地だらけ」
「そういうもんか」
「そういうもんです」
折り目が付いた手帳のページを回想し、もったいぶって頷く。遊輔が反駁する。
「お前が作るなら何だってイケっけど」
「舌に欠陥あるんじゃ?」
「……可愛くねえ」
「理想が高いと言ってください」
舞い上がる心を隠して憎まれ口を叩き、一旦その場を離れる。自室に寄って紙袋を持ち、キッチンに取って返す。
「色々あって渡しそびれてました」
「俺に?」
押し付けられた紙袋を開き、困惑気味に中をあらためる。遊輔が束ねて持ったのは、手首から指の第二関節まで覆った、本革の黒手袋。小物でも余裕で二桁万円する、外国のハイブランド製品だ。
「一応両手セットになってます。使用はお好みで。右手の火傷、結構目立っちゃってるから……根性焼きで引かれちゃ握手もできないし、必要経費です。デザイン材質は悩んだんですけど、指切りタイプの方が普段使いに向いてて、ペンやスマホと相性いいかなって。嵌めてみてください」
手袋に指を通す。
「かっこいい。似合ってます」
しなやかに翳された手に見とれ、グラスの残りを飲み干す。遊輔が落ち着かない素振りで手袋を引っ張る。
「いくらした?」
「気にしないで。稼いでるんで」
飴が溶けた炭酸水は薄っすら色付いて見えた。遊輔は手を開閉し、指を曲げて伸ばす。
「付け心地は?」
「上々」
「良かった」
黒い手袋越しにグラスを掲げ、ドロップスが溶け残る、炭酸水を陽射しに透かす。
「決めた、コイツの名前」
「サクマドロップスの炭酸割り?」
「まんまは味気ねえ」
「なんて付けるんですか」
「コーカスレース」
甘口の炭酸水をマドラーで攪拌する。かきまぜるごと細かい気泡が弾け、底に沈殿したドロップスが浮き沈みしつつ廻り出す。
「『Lewis』の看板カクテルって触れ込みで売り出そうぜ。俺とお前の合作」
「考案者は遊輔さんでしょ」
「インスピレーションもらったから」
「固形物は危ないですよ」
「イッキしなきゃ大丈夫だって」
「リキュール配合したスピリッツをソーダとトニックで割っても美味しいかも」
手帳を開きレシピを相談する。炭酸に浸した飴をガリゴリ頬張って噛み砕き、遊輔が詫びる。
「悪かった。ろくでもねえ元カレに会うってわかってりゃ連れてかなかった」
「偶然は予測できません」
「不快な想いさせた」
「かえって得しました、媚薬呷ってドロドロになった遊輔さんのエロい姿たくさん見れて」
「あれ、マッチングアプリで知り合ったガキに盛ろうとしたんだよな」
「でしょうね」
「デートレイプ常習犯か」
「今回はたまたま未遂で済みましたけど、次もそうなるとは限りません」
「ストーカーと手ェ切りてえ?」
「店の場所と名前は聞いてます」
「上出来」
何を考えてるか、お互い目を見ればわかる。不敵な笑みを交わし合い、空にしたグラスを置く。
「落とし前付けに行くか」
「トンボ返りは忙しないです。少し休んでいきましょ」
「だな」
行儀悪くカウンターに掛けた遊輔に向かい、はりきってシャツの袖を捲る。
「リクエスト伺います」
「バイオレットフィズ」
まじまじ見返す。
「対抗心?」
「嫌な記憶は酒で上書きする主義」
バイオレットリキュール、レモンジュース、砂糖、ソーダ。戸棚と冷蔵庫から原料を取り出し、正確な計量を行い、シェイカーで滑らかに攪拌し、雫を切ってグラスに注ぐ。
「お待たせしました」
きらきらしたものが好きだ。
子供の頃に観覧車から眺めたネオン、宝石のように光るカクテル、心の穴に栓するピアス、炭酸水に溶けたドロップスと儚い泡、オイルライターが煙草にともすオレンジの火、伸び縮みする炎を映す眼鏡のレンズ、自分と同じ位器用に生きられないこの人の全て。
「美味い」
気持ちいい飲みっぷりに惚れ直し、薫は笑った。
「昨日の返事、聞いてください」
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