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エピローグ
ラブホで迎える朝は倦怠感が漂っている。瞼を上げた視界は軸が歪み、インテリアの輪郭がブレていた。
習慣的に枕元を手探りし、眼鏡を忘れたドジに舌打ち。
まだ寝足りない。体が睡眠を欲している。そりゃそうだ、昨日は年も考えず無茶をした。
幸い薬は抜けてるようで、関節が軋む以外は健康そのもの。二度寝しようと欠伸を漏らし、目の前に迫る顔に息を呑む。
すぐ隣に薫が寝ていた。
全裸で。
「心臓に悪ィ」
戯れに手を伸ばし、髪の毛に指を通す。サラサラして気持ちがいい。一房掬って落とし、また摘まんで擦り、感触を楽しむ。
「ったく」
すっかり毒気を抜かれてしまった。当初は浮気の埋め合わせにデートに連れ出し、適当に遊ばせて機嫌を取り、うやむやにする計画だった。
観覧車に誘ったのはただの思い付き。薫が以前言ってたことを思い出し、久しぶりに乗ってみたくなったのだ。
『風船はいらない。ポップコーンもいらない。たった一晩、ぐっすり眠る夢を叶えてほしかった』
それを聞き、願いを叶えてやりたいと思った。
ゴンドラに押し込んで父親から逃がし、たっぷり眠らせてやりたいと。
今、その願いが叶った。
薫は遊輔のそばで熟睡してる。この顔が見れただけで報われた、接待デートが無駄じゃないと思えた。
パンダ四十八手マグはいただけねえけど。
心の中でこっそり付け加え、推理の裏を取るべくワードローブの荷物を点検。
「めっけ」
年季の入った手帳をぱらぱらめくり、青インクでUと記されたページを精読。スクリュードライバー、ゴールデン・スリッパー、ソルティ・ドッグ、ボヘミアン・ドリーム、ラスト・ワード……。
「やっぱそうだ、俺の好きなのばっかじゃん」
Uの字レシピにはびっしり字が書きこまれていた。原料の配分や作り方は当然として、ソーダを増量するとかライムを搾るとかミントを添えるとか、遊輔好みの味変が事細かにメモってある。
「……お前さあ」
なんだかむずむずし、荒っぽく手帳を閉じる。盗み見の罪悪感は皆無。文句あんならハメ撮り消せ。
手帳を荷物に戻したのち、サイドテーブルに置かれた光り物に目を留める。
薫が手ずから外したピアスとイヤーカフ。
ピアスの数は自己嫌悪の数と言ったのは誰だったか。
薫のピアスは一種の自傷行為、虚しさをごまかす代償行為。要は遊輔の煙草と同じ、痛め付けるのが耳か肺かの違いだけ。
やんちゃしていた時代を振り返り、ピアスの穴が半日足らずで塞がった、新陳代謝の良さを懐かしむ。
何食わぬ顔でピアスを摘まみ、唇に持っていく。ひんやりした金属に口付け、それを薫の耳にあてがい、テーブルに戻す。
さて、コイツの起床前に事を済まさねば。ベッドを離れてトイレに行き、体内の残滓を掻きだす。後始末に手を借りるのは癪だ、惨めすぎる。抱かれる側に回る屈辱は渋々受け入れたものの、最低限格好付けたい。
そういやフェラしてやんなかった。俺だけしてもらった。別にやれとも言われなかったが、同じ男だからこそ、物足りない気持ちがわかってしまって後ろめたい。
トイレットペーパーを巻き取って後始末を済ませ、ベッドにもぐりこむ。すぐさま眠気が押し寄せた。
薫が起きたのは二時間後。遊輔は今起きたふりをする。
「何時?」
「八時です」
「もっと寝た気分だった」
口喧嘩もそこそこに浴室に追い立てる。薫はシャワーを浴びながら朝粥がどうたらほざいてた。綺麗さっぱりシカトこき、パクったマホをいじる。案の定ロックが掛かっていた。
「畜生」
待て、ホテルの鏡を割ったら弁償だ。ぶん投げる寸前自制し、ベッドの上で胡坐をかき、ロック解除に躍起になる。失敗。また失敗。バッキバキに叩き割りてえ。集中するあまり、シャワーを終えた薫に気付かなかった。
手元からスマホが消える。持ち主に奪還された。
「テメエまだ懲りて、」
ロック解除済みのスマホを投げ渡され、罵倒の続きが萎む。薫はバスローブ姿でベッドに掛け、髪の毛の水気を拭き取る。風呂上がりの体は清潔な香りを纏っていた。
「消し方知ってますよね。わかんなかったら聞いてください」
「金輪際人のハメ撮りオカズにすんな」
「前付き合ってた人たちとはそういうの普通にやりとりしてたし、遊輔さんのも欲しくなって」
性根の腐った元カレを引き合いに出され眉が歪む。若干嫉妬も混じっていた。声の温度を下げて吐き捨てる。
「言い訳?」
「じゃなくて。いや、そうかもしれないけど。もし、もしですよ。遊輔さんが急にいなくなっちゃったとしても、貴方を抱いた動画が残ってるんなら、喪失感をだましだましやってけるんじゃないかって思ったんです」
「保険掛けたってか」
手の中のスマホを軽く弾ませプレッシャーを与える。語気鋭くなじられ、薫が悄然と俯く。
「ライン超えました。怒って当然だ。軽蔑してください」
『おこぼれで満足しろって?掠め取るのも許されませんか?』
薫は遊輔の動画を自慰に使ったが、本人を穢しはしなかった。リビングのカウチで爆睡する遊輔自身には指一本触れず、眠りを脅かさず、独りでシコシコ処理していた。
大前提として遊輔は居候の立場、家賃は体で払えと要求されたら断り辛い。しかしそれはせず、遊輔の意志を尊重してくれた。
知人と飲む予定があると言えば大人しく引き下がり、酔ってるから勃たねえとごねれば唯々諾々と聞き入れ、ギャンブルでスッた腹いせに店仕舞いを決め込んでも笑って許す。
どんなに待たされじらされても苦笑で流し、双方合意の上で行為に及ぶ事実にこだわった。
耳にあるのが当たり前と思い込んで外し忘れたピアスのように、知らず知らず薫を雑に扱っていた。
同居が長引き慣れが甘えに変化した。言わなくても態度でわかれ、空気を読めと圧を掛け、肝心な気持ちを伝える努力を省いた。
だって言えねえだろ、よすぎてわけわかんなくなっちまうのが怖えなんて。
セックスの時も常に頭の片隅は醒めていた。快感を感じる回路と理性を切り離し、状況を客観視することができていた。処世術として磨いたテクと経験に基ずく慣れ。
その理屈が薫に通用しない、遊輔のやり方が通らない。
薫に抱かれてる時は頭と体が暴走し、女とやる時は絶対出さない声が出る。遊輔が信じていた「普通」が壊れる。
ゼクシィの一件からまるで成長してない、自分の狡さに呆れる。惚れた弱味に付け込んで振り回すなんて、刺されたって文句は言えない。お預け喰わされた人間が飢えるのは当然で、他者を軽んじた報いを受けただけ。
深呼吸で怒りを鎮め、なげやりに聞く。
「何回ヌいた?」
「十回以上」
「多いな」
ちょっと引く。薫が慌てて言い募る。
「負担かけるから毎日ってわけにいかないし、そんな時は動画で慰めて」
「お優しくて涙がちょちょぎれるぜ」
携帯を突っ返す。
「俺も元カノのエロ画像持ってたし。お互い様ってことで、今回は許す」
正直まだむかむかしてる。しかしまあ許す。コイツが面倒臭いヤツだって、わかって付き合ってたじゃないか。
遊輔の体を労わり、セックスを我慢していたのも多分本当。薫は顔に似合わず結構な絶倫で、一日一回は多すぎにせよ、三日に一回は本番を望んでいる。遊輔が応じるのは二週間に一回程度。
ケツが痛くなんの嫌だし、付け上がらせんの癪だし、コイツとやると感じすぎておっかねえ。ゴムは言わなくても付けてくれっけど、地雷を踏むと生で出す。
以上が断り続けた理由。
恋愛対象は女のまま男に抱かれる良さにハマり、戻ってこれなくなる予感に怯んで、自身の性的指向を確認する意味を兼ね、部屋に招いたセフレを抱いた。
薫がキレるのは無理からぬ話。溜まりに溜まったものが爆発しただけ。
しょうがねえ、責任はとる。
「ちゃんと洗ってきたな?」
「はい」
「よし」
バスローブの前をはだけ、手のひらに吐いた唾を伸ばし、萎えたペニスに刷り込んでいく。薫が戸惑って腰を引く。
「この為に朝イチでシャワー行かせたんですか?どんだけ……」
「やられたらやり返す。じゃねえと気持ち悪ィ」
「負けず嫌いすぎる」
今さら気付いたのかよ。鈴口に滲む雫を舐めとり、青臭い苦味に顔を顰め、括れに息を当てる。ペニスがだんだん頭をもたげて脈打ち、先端に血が集まり始める。
「寝て起きたら完全復活かよ。若いっていいな」
本音と揶揄を織り交ぜからかい、下顎の窪みに唾をため、手と口を使ってまぶす。粘滑な唾液でローションを代用し、根元に左手を添え、右手で擦って育てながら含む。
「ッ、ふ」
完全に克服したとは言えないが、フェラへの苦手意識は大分薄れた。最初の頃は喉の奥に行き過ぎてえずいていた。
『気分出してしゃぶれ』
嫌な思い出が過ぎる。きっかけは些細なこと。小三の終わり頃アパートに転がり込んだヒモは、歴代の父親候補の大半がそうするように遊輔を邪険にした。
可愛げねえ。懐かねえ。手を上げる理由は色々。お父さんなんて死んでも言うかと心に決め、下の名前を呼び捨てしていたのが最大の原因。
「上手くなりましたね」
ヤツは今の遊輔と同じか少し若いか。クソガキにタメ口叩かれ、逆上する心情は理解できる。
あの夜は口論の声で叩き起こされた。押し入れの襖を開けて覗き見ると、上半身裸の男が怒り狂い、手当たり次第に物に当たっていた。布団には変な物が転がっている。ずんぐりした黒い棒。
あの時起きたことが今ならわかる。
新しいバイブを使おうとして喧嘩になり、腹を立てた母が出て行ったのだ。男の性格上、断りを入れず持ち出したと見て間違いない。
目が合ったのは不運だった。もっと早く襖を閉めていれば、あるいは。
「何事も慣れ」
集中しろ。わかってる。目を瞑り雑念を散らす。生のペニスは皮膚の味がする。アレはゴムの味がした。
襖の隙間から覗き見していることに腹を立てた男は、押し入れから引きずり出した遊輔を畳に突き倒し、殴る蹴るの暴行を加えた。
身を丸めて嵐に耐える遊輔から一旦離れ、部屋の隅に放り出されたボロボロのランドセルを漁り、塩化ビニールの縄跳びを手に戻ってくる。
嫌な予感がした。
揉み合いを制した男が遊輔をあっさり裏返し、背中で束ねた手を縛る。嫌がり暴れても無駄。ただでさえ同年代に比べ小柄でやせっぽち、大の男に太刀打ちできない。
『しゃぶれ』
まだしも幸いだったのはバイブが使用前の新品だったこと。男はニヤニヤ笑い、遊輔の口にいかがわしい玩具を突き付ける。
『オモチャやる。下ごしらえしとけ』
遊輔は激しく抵抗した。縛られたまま跳ね回り、死に物狂いであとじさる。されど男の力は強く、片手で顔を掴んで口をこじ開けにかかる。顎が外れそうに痛む。目と鼻の先にグロテスクな道具が迫り、唇を結んで顔を背ける。
『言うこと聞け』
腹を蹴られ吹っ飛ぶ。灼熱。狙い定めた爪先が鳩尾に食い込み、両手を封じられ受け身を取れない体が弾む。勢い良く跳ね転がった所に男が馬乗り、鼻を摘まむ。耐えきれず息を吸った瞬間、唇を割って異物が押し込まれた。
『!?ん゛ッ、ぐ』
口を殴り付けるような衝撃。ゴツゴツ当たって痛い。圧倒的異物感。息苦しさに吐き気を催す。勃起時の男根を模したバイブは太く、表面に無数の疣が付いた、卑猥な形状をしていた。直径五センチ、長さは二十センチ以上。涙が滲んで視界がぼやけ、ゲスな笑顔がブレる。
『もっと開けなきゃ入んねえだろ』
反応を面白がり、さらに奥にねじこむ。苦しい。気持ち悪い。喉を突かれてえずく。酸欠で朦朧とする。男が勢い付いてバイブを出し入れする。涙が止まらない。口の詰め物を吐きたい。
『うぇ゛、げ』
『きったねえ顔。涙と鼻水でぐちゃぐちゃ。そんなにうまいかコイツが、お前のお袋はもっとぶっといの下の口に咥えこむぜ、血は争えねえな』
居丈高に勝ち誇り、伸び縮みして這いずる遊輔を見下す男。遊輔の口とバイブはたるんだ唾液の糸で繋がれていた。
もっと舌使え。じゅぽじゅぽエロい音立てて。はは、上手になってきたじゃん。なんだよ顔赤えぞ、目がとろんと潤んで……こっちの才能あるんじゃねえの?ちゃんと濡らしとけよ、じゃねーとお袋が痛てえ想いすんぞ。
『え゛っぶ』
男が髪を掴んで揺する。窒息の苦しみに虚勢が消し飛ぶ。嗚咽は喉で塞き止められた。汗と涙と涎の濁流で顔が歪む。目一杯口を開け、ぬれそぼったバイブをしゃぶる。じゅぽじゅぽゴツゴツ音がする。腕を圧迫する縄が痛い、全体重を支える膝が痛い、蹴られた腹が痛い、全身燃え上がるように熱くて痛い。頬に滴る涙が塩辛く、大量の汗が肌を蒸す。
早く終わってくれと狂おしく祈り、切羽詰まった舌遣いでバイブを舐めて含む遊輔に卑語を浴びせ、痛め付けてるうちに興奮したのか、男がちゃらけて提案する。
『首振り機能試してみっか』
スイッチを押す。
『!!ッ、』
喉を圧するバイブがくぐもった音立て蠕動する。衝撃に背中が仰け反り、涙がぽろぽろこぼれる。ブインブインうるさい音が響き、不気味な機械が口の中をかき回す。歯が折れたかと思った。母の背中がフラッシュバックし、跪いて男に奉仕する、浅ましい横顔が駆け巡る。
「ここで残念なお知らせ。あちこちいじりながら言葉責めしたよな?お生憎様、殆ど見えなかったよ」
あの頃既に視力が低下していた。自分を虐げる男の顔がぼやけ、よく見えないのは幸いだった。
『育ち盛りが遠慮すんな、いっぱい食え』
覚えているのは饐えた体臭と回る天井、服とゴミが散らかり放題で荒廃した部屋の情景。男が気忙しくスイッチを切り替え出力を上げる。遊輔はバイブに舌を這わせ、巻き付け、媚びた。瞼の裏の母をまね、男が気に入るようにした。
『可愛げでてきたじゃん。極太バイブのお味はどうだ?お代わりほしいか?』
膨らむ一方の吐き気。限界まで酷使した顎関節が攣る、軋む、壊れる、押し広げられた喉がぐぼぐぼ鳴る。これ以上口が開かない。男が反対の手で髪の毛を引っ張り、ぺちぺち頬を叩き、脂汗と洟汁と涙と涎を、遊輔自身がしとどに垂れ流す体液を顔中なすり付ける。ブインブインしぶいて暴れるバイブが当たり、根っこがぐらぐらしていた奥歯が欠けた。乳歯と共に自尊心も砕けた。
『~~~~~~~~~、~~~~~~~~~』
テカり蠢くバイブが真っ赤な粘膜を捏ね回し、強烈な振動が歯から神経に伝い、無機質なゴムと鉄錆の味が広がる。喉が不規則に痙攣し、酸っぱい胃液が逆流する。
『 さんゆるし、あ゛っごめなさ、も゛っ呼び捨てしねっ゛、から』
『敬語は』
『え゛ッぶ、ん゛ん゛ッ、呼びタメしません、おれっ、が、悪かったから、もうやめて、けはっ』
悪ふざけがどれ位続いたか覚えてない。随分長く感じたが、十分かそこらだろうか。
『ゲロ拭いとけ』
泣いて謝る遊輔を嬲るのに飽きた男は、面倒くさそうに縄をほどき、バイブのスイッチを切って眠りに落ちた。
遊輔の手と顎は痺れきり、酸欠のせいで頭痛を起こし、傷めた喉が渇きを訴えていた。
汗と涙を搾り尽くし、水分が枯れ果てた顔で雑巾を掴み、のろくさ汚れ物を始末する。擦り剝けた膝がひりひりした。
事を済ませたあと高鼾で大の字の男から離れ、洗面所でうがいをする。水には血が混じっていた。切れた口の端を引っ張って広げると左下の歯列に開いた穴が鏡に映り、心がさむざむした。
あのクズが遊輔にしゃぶらせたバイブで母を責めたかどうか、真実なんか知りたくもない。
ローターに処女を切られ、バイブに口を犯され、お前に今抱かれてるなんて笑い話にもなんねえ。
「なんてったっけ、俺に抱かれてるとこちゃんと目に焼き付けて~だっけ?」
「い、言わないで」
「色んな体液でドロッドロになったはしたない顔もツンと尖った乳首も鍛えた腹筋も」
「すいません調子乗りました思い出さないでください」
「ぜってえ忘れてやんねえ」
フェラは苦手だ。最悪の夜が蒸し返され、平静を保てなくなる。なのに何故薫にしてやりたくなるのか、矛盾した心の働きを訝しむ。コイツとアイツは違うと、俺は好きでやってるんだと、大人になった自分にわからせるため?
薫には秘密がある。遊輔にもある。お互い人には言えないこと、相手に知られたくない過去を隠してる。
だから?
腹の中身を一切合切ぶちまけあうことだけが、相棒の条件とは限らない。
遊輔は格好付けたい。
これは譲れない。
横浜のラブホをチェックアウトし、電車を乗り継いで東京に帰り、マンションの玄関をくぐる。
帰宅途中、駅のキヨスクでドロップ缶を買った。それをグラスに注いだ炭酸水に沈め、コーカス・レースを作った。
薫はきらきらしたものが好きだから、きらきらした飲み物をごちそうしてやろうと思い立って。
「昨日の返事聞いてください」
キッチンに立った薫と対峙し、続きに耳を澄ます。バイオレットフィズの氷が溶け、パープルの色合いが薄まる。薫がごく淡くはにかむ。カーテンの隙間から斜めに陽射しが伸び、ピアスが眩く輝く。
「こんな俺でよければ、末永くよろしくお願いします」
「こっちこそ」
照れ隠しだろうか、「お代わりいります?」と背中を向けた薫に忍び寄り、後ろ襟の内側にロックアイスを放り込む。
「隙あり」
「!ひっ、」
素っ頓狂な声を上げた薫にジト目で睨まれ、両手を挙げて降参する。
「悪戯やめてください、瓶倒すとこでした」
「持っても冷たくねえか試したんだよ。さすがはブランド品、防水加工バッチリ。寝煙草の灰が落ちても安心だな」
「服に入れることないでしょ、遊輔さんのエッチ」
「エッチって」
礼言わねえと。急く気持ちと裏腹に妙な意地と見栄がもたげ、代わりにポケットを探る。
「手え出せ」
「なんで」
「いーから」
怪訝そうな薫の手のひらに、ブリキのハートを剣が貫いた、装飾的なピアスを置く。
「これは……」
「メキシコの特産品、コラソンのピアス。中華街に雑貨屋あったろ、あそこで見かけた。向こうじゃイエス・キリストの聖なる心臓を示すモチーフで、心や愛を意味するんだとさ。『Lewis』にも飾ってあんじゃんマスターの海外土産、小せえから邪魔になんねえだろ」
「心を捧げてくれるんですか」
「ある意味心臓掴まれてっし……あと」
一瞬言葉を切り、薫の胸を指で突く。
「お前の心臓は血を流してっから、スペアがいる気がした」
世話になってるお礼。浮気の罪滅ぼし。ご機嫌取りの賄賂。こじ付けはいくらでも出来るが、どれも微妙にズレてる気がして、率直な気持ちを告げる。
薫がコラソンを翳し、宗教画の天使のように微笑む。
「コープスリバイバーみたいな赤ですね。誠意の形として貰っておきます」
物騒なたとえに鼻白んだ遊輔が、だしぬけに薫の胸ぐらを掴み、力強く引き寄せる。眼鏡の奥の目が細まり、かと思えば大きく開かれ、薫を真っ直ぐ言竦めた。
「ちゃんと見てんぞ」
遊園地の観覧車で、ラブホのベッドの上で、俺のことを見てくださいと薫は懇願した。
瞬きを我慢して核まで抉り出すような凝視を注ぎ、この分からず屋に辛抱強く何度でも、しっかり言い聞かせる。
「お前の考えてることわかったとか言えねーけど、ずるいとこも弱いとこもかっこ悪いとこも見てっから、全部ひっくるめてお前だってわかってっから、しんどい時は寄りかかれ」
言いたくないことは言わないでいい。言いたくなった時に聞かせてくれればそれでいい。真実だけが全てじゃない。俺は安っぽい嘘で救われる卑しい人間で、コイツも多分同類だ。
遊輔の気持ちが伝わったのか、薫がハートを返してせがむ。
「嵌めてくれます?」
指切りタイプの手袋はこういう時に便利だ。薫がピアスを取り外す。
「くすぐったい」
「じっとしてろ」
耳にかかる髪の毛を吐息で吹き上げ、コラソンのピアスを添え、柔肉の孔を塞ぐ。体からは同じソープの匂いがした。遊輔が手を離し、後退して仕上がりを確める。
「あ~~……チャラくなったな」
「そこは嘘でも男前が上がったとか似合ってるとか言ってくれません?割と真剣に傷付くんで」
「ホストっぽいバーテンがバーテンっぽいホストになった。仕事場じゃしねえ方が無難だな、悪目立ちする」
「取る時はお願いします」
「甘えんな。自分でやれ」
「俺の心に触れていいのは遊輔さんだけですから。今の殺し文句ですよ」
「自己申告イラネー」
遊輔の手には薫が贈ったグローブ、薫の耳には遊輔が贈ったピアス。出来た穴の径だけ広がる虚無を埋め、コーカス・レースの環は閉じる。
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