23 / 25
後日談 オンリープライオリティ
「えっドライヤーは?」
申し訳程度に髪を拭いてリビングに入るなり、サイフォンでコーヒーを抽出していた薫が聞いてきた。遊輔は手を止めず、バスルームの方に顎をしゃくる。
「洗面台に置いてあったぜ。しまい忘れか」
「俺が聞いてるのはなんで使ってないんですかってこと」
「男がドライヤーなんか使うか」
開き直って鼻を鳴らす遊輔に薫は呆れ顔。口うるさく注意したので風呂上がりにパンツ一丁で徘徊するのはやめてくれたが、髪をきちんと拭かず出歩く癖は未だに直らない。お陰で廊下に水滴が点描されている。滑って転んだら大変だ。
サイフォンが最後の一滴を落とすのを待ち、マグの取っ手を持ってリビングに運んだ薫が、形良く整った眉をアシンメトリーに曲げる。
「じゃあ何ですか、ずっと放置してきたんですか」
「自然乾燥派なの」
「風邪ひきますよ」
「んな柔じゃねえ」
「乾かしながら整えないと変な癖付きますよ」
「へーへー」
冷蔵庫を開けてよく冷えた缶ビールを取り出す。遊輔がプルトップを引いたタイミングでコーヒーを一口含んで嚥下する。仄白い湯気に乗じ芳醇な苦味が口の中に広がっていく。スタバで大人買いした銘柄だ。遊輔が来てから消費が激しくなった。まだストックは切れてないはずだが、あとでチェックしとこうと心にメモる。
「知ってますか遊輔さん、イマドキは男性だって髪やお肌の手入れするんですよ」
「化粧水使ってんの?」
「保湿用に。洗面所で見ませんでした?」
「そういや棚にあったような……全然気にしてなかったわ」
「観察力の低下が著しいですね。記者失格」
「るっせ」
「整髪料とシェービングクリームの見分けも付かないですもんね」
「アレは仕方ねえだろ、紛らわしい見た目してんのが悪い。擬態かよ」
「歯磨き粉と洗顔クリーム間違えた時は笑いました」
「一口目で気付いたからセーフ。ごっくんしなきゃオッケー」
現在遊輔は灰色のスウェットを着ている。近所のドンキで買った服だ。割引セール中で安かった。袋から出した途端薫が何か言いたげな顔をしたが、あえて気付かぬふりで無視をした。遊輔自身は伸縮性と動きやすさを大いに気に入ってる。
あの時と同じ顔で遊輔の服装を眺め、硝子のローテーブルにマグを置いた薫が小首を傾げる。
「ひょっとして遊輔さんてジャージとスーツをリーズナブルな二択で着回す人ですか」
「心を読むな」
「よく考えればそれしか見たことないなあって」
「それ以外も持ってるよ。ここに転がり込む時置いてきちまったけど……今頃大家に売っ払われてるんじゃねえかな」
「部屋着でTシャツ着るんですか?」
「まあ……」
「面白い」
薫が唇を歪めて笑いを堪える。「働いたら負け」とでかでか書いたシャツを着た遊輔の姿を想像してるのだろうきっと。
カーテンを引いた窓の外には色とりどりのネオンを散りばめた都心の夜景が広がっているが、わざわざ暴こうとは思わない。ここに来て間もない頃はちょくちょく端っこを捲っては悦に入っていた。
以前は成金の巣窟と毛嫌いしていたタワマンも住めば都、慣れれば快適だ。厳密にはリビングの隅に間借りしてるだけだが、生活圏にはじゅうぶん事足りる。
申し分なく長い脚を組んでコーヒーを啜る薫の足元、ウールのラグを敷いた床に胡坐をかき、首に掛けたタオルで濡れ髪をかきまぜる。前髪の先端から滴る雫をパイル地に吸わせ、序でに眼鏡のレンズも拭いておく。
風呂はパスしてシャワーで済ませることも多いが、今日はちゃんと肩まで浸かってきた。遊輔は熱めが好きなので大抵先に入る。対する薫はぬるめが好きだ。居候が一番風呂をもらうのは厚かましいと思わないでもないが、幸いにして遊輔に甘い世帯主は気にしてない。
マンションの高層階には車の走行音も届かず、厚い壁は周囲の生活音を通さない。よって会話を聞かれる心配もない。薫の質問はまだ続く。
「彼女にドライヤー借りたこともなし?」
「電気代食うだろ、こっちもちったあ遠慮したんだ。店で散髪する時はやってもらったけど」
飲み干した缶を名残惜しげに逆さに振り、中身が完全に空だと確認後に投擲。一回壁に跳ね返りゴミ箱に落ちた。頭にかぶったタオルの下で遊輔が喜ぶ。
「よっしゃ、ロングレンジ成功」
「せいぜいミドルレンジでしょ。不燃物は分類してください」
薫の見立てではせいぜい八メートルしか離れてない。嘗て遊輔と暮らした女たちの苦労に想いを馳せ、さりげなく話題を変える。
「片手じゃ足りない数の元カノさんたちと半同棲してたんでしょ。行き当たりばったりで転がり込んで挙句ずるずる居着いて、まるっきりヒモの生態ですね」
「合意だよ。余裕がある時ゃ家賃折半した」
「ない時は」
「ツケで」
「記者ってそんな儲からないんですか。それとも浪費が激しいんですか」
痛い所を突かれた。薫は歌うように続ける。
「彼女が貢いだお金を競走馬とパチンコ台に貢ぐのが遊輔さんの本分か。金は天下の回りものってそーゆー意味か、不毛なルーティンワークご苦労様です」
「髪なんてほっときゃ勝手に乾く。いちいち手ェかけんの面倒くせえ」
「せこいとかケチくさいとか言われませんでした?」
言われたことはある、何度も。乾かしたげると提案されたことだって。そんなサービス実の親にさえしてもらったことがないし、許した女は過去に一人だけだ。反抗期の息子に代わる慰みを求めて未成年を飼った女、若いツバメの世話を焼いて欲求不満を解消しようとした女。今ではぼんやりとしか顔を思い出せない。
柔軟剤の香りがするタオルで横髪をしごき、眼鏡越しにチラ付く前髪の束を絞って嘯く。
「ほったらかしが一番安上がり」
「もっと丁寧な暮らししましょうよ。素材は悪くないんだから生かすも殺すも手入れ次第、ドライヤーをサボるのはセルフネグレクトの初期症状です」
「時々ぎょっとすることぬかすよなお前。極端すぎんだろ」
薫が腰を浮かし廊下に出ていく。トイレかと思いほっとく。うるせえのがいなくなってせいせいした。
再び帰ってきた時、その手はドライヤーを握っていた。嫌な予感。
「何する気だ」
身構える。
「してあげます」
薫がにっこりする。恩着せがましい圧を秘めた笑顔。
「いいって」
「遠慮せず」
「嫌がってんだよ全力で」
「だったら洗面所でちゃんと乾かしてきてください。誰が後で床拭くと思ってるんですか、遊輔さんがモップになってくれるんですか」
への字に口を結ぶ。前々から不満を募らせていたのだろうか?薫は怒らせると怖い。
「ほっときゃいいじゃん、いいフローリング材使ってんだからすぐ蒸発するって。閃いた、廊下も床暖房にするか」
「蒸発してるのは遊輔さんの貞操観念でしょ。イヤイヤ期の子供みたいにごねないで、こっち来て座ってください」
遊輔は知っている、下向きに手招きしているうちに従うほうが賢いと。上向きになったら危険な兆候。お怒りはごもっとも、薫にしてみればわざわざ気を回して出しておいたのに袖にされた形だ。
「キューティクルの絶対監視者め」
仕方なくにじり寄り、ふてくされて胡座を組み直す。遊輔がじゅうぶん接近するのを待ち、薫はドライヤーのスイッチをオンにする。たちまち人工の温風が吹き付けてうなじをくすぐり、ビクッと首を竦めた。
「動かないで」
プロ以外にドライヤーを使われるのは初めてだ。若干の緊張と居心地悪さに背中を丸める。薫は右手にドライヤーを持ち、吹き出し口をこまめに傾けながら左手に風を当て、角度と距離を調節している。
「熱かったら言ってください。離すんで」
細く長くしなやかな指が後ろ髪を摘まみ、かと思えば悪戯っぽくうなじを滑っていく。彼女以外の人間に髪を触らせた経験は少ない。理容師を除けば母親の男に髪を掴まれた時位か。いや待て、仕事でドジ踏んでヤクザに拉致られた時や西高の狂犬とか呼ばれてあたり構わず喧嘩を売り買いしていた不良時代も……ろくな思い出ねえな。
耳たぶの裏に忍ぶ吐息がシケた回想を断ち切る。遊輔の後ろ髪を一房掬って落とし、薫が囁く。
「まっすぐで綺麗な髪。地毛ですか?染めたことは」
「ねえよ。似合わねえ」
「どうかな」
母親の男は大抵金髪か茶髪だった。それで偏見を持っているのかもしれない。訂正、単に染めるのが面倒くさかっただけだ。そういうことにしておく。
「硬派ですね」
薫の声が弾む。何が面白いのか理解できない。黙って茶番に耐える。
濡れ髪の間を乾いた風が吹き抜け、頭皮を干す心地よさにほんの束の間まどろむ。
「遊輔さん」
「寝てねえ」
慌てて目を開ける。首をねじって振り向けば、薫はドライヤーを右手に預けてこっちを見ていた。
「口元に涎が」
慌てて顎を拭ってからブラフと気付き、してやったり顔を睨み付ける。イライラして膝を崩す。
「煙草喫ってくる」
「あと五分」
「張っ倒すぞ」
「せっかちさんだな。まだ終わってませんよ」
「~~うっぜえぞお前」
静かに唸るドライヤーの風が勢いを増し、タオルで吸い切れない髪の湿り気をとばす。
「ここ性感帯だったりします?」
「調子のんな」
「ごまかすのが怪しい」
「髪に神経通ってねえよ」
「優しく触ってあげたら生えてくるかもしれません」
「ホラーかよ、想像しちまった」
タオルでまぜた際に出来たハネを寝かせ、繕いながらドライヤーで風を通す。正規の美容師でもないくせにやたら上手い。何でも出来る薫のことだから免許持ってたって不思議じゃねえが……。
髪の毛を梳く手付きが作業から愛撫に変化していく。言い訳できる程度にフラチな下心をほのめかす指遣い。
指の間を滑り落ちていく直毛の質感に小さく吐息を零す。
「サラサラで気持ちいい」
している本人は確信犯でも勘違いだと逃げを打てる、小賢しいずるさが憎たらしい。
「こそばゆ」
ニヤニヤ笑ってる気配がするのが業腹だ。完全に遊輔の反応を観察して楽しんでる。胡坐のまま貧乏揺すりをし、首の後ろに回したタオルの両端を掴んで引っ張る。
「もうちょいパパッとできねえ?」
「優しくされるのは嫌ですか」
慣れねえだけだ、と心の中だけで付け加える。
「ぞわぞわする。わざとやってんの」
「俺は遊輔さんを甘やかしてるだけですよ」
「甘えんのは年下の特権だろ」
「頭が固いな。大人だってたまには甘えたっていいじゃないですか」
女に髪をさわらせたことは数え切れない。事後のベッドでじゃれ合いながら撫でたことも撫でられたこともある。薫の触り方はこれまで抱いてきた女たちと違い、尊敬と慈しみを織り込んだこまやかな愛情を感じさせた。
一夜限りの楽しみと割り切らず、暗にその先を期待するような。
「三十路にしちゃ肌キレイですね。寝不足飲酒喫煙が祟ってボロボロになってそうなのに」
「言うことがいちいちきしょ」
「通常運転ですよ」
丁寧に扱われるのは後ろめたい。そんな資格もないのに甘え倒しているような、自分の支えを欲する子供に寄り掛かっているような、仄暗い疚しさと背中合わせの穏やかなぬるさが理性を酔わす。
「枝毛だ。栄養足りてないのかな」
「いちいち報告すな」
「健康には気を付けなきゃ駄目ですよ。俺のスムージー毎朝飲んでくださいね」
「パスで」
「ビタミン沢山入ってるのに」
「問題は味」
「ハチミツ増やしますか」
「甘ったりぃの苦手」
「改善の余地ありか。観葉植物の鉢やシンクに捨てられない程度には努力しますよ」
……ばれていた。油断も隙もありゃしねえ。
襟足から首筋へ這い、頸動脈を経て戯れる指にフェティッシュな独占欲が滲む。
簡単に切り離し忘れてしまえる髪にまで未練を覗かせるさわり方。
くだらないものが特別なものであるかのように誤解させる梳き方。
この指に奉仕されたい女なら幾らでもいるだろうに、なんでよりにもよって俺なんだよと訝しむ。男の趣味が悪い。マジ終わってる。
こみ上げるあくびをこらえ、眠気覚ましに質問する。
「お前のそれ地毛?」
「天然です。もとから色素薄いんですよね、髪質は母に似ました」
「猫っ毛か」
「たまに染めて気分変えるけど今は素です」
「夜職は自由だよなそのへん。何色にしたんだ」
「普通に茶系統が多いかな。もっと濃くしたり明るくしたり……今度行き付けの美容室紹介しましょうか、いい感じにセットしてくれますよ」
「どーせ意識も値段も高いんだろ」
「クオリティと報酬は比例します」
「客単価とプライオリティは切り離せねえってか」
「俺の一番は遊輔さんですけど」
「そりゃどーも」
コイツの髪は嫌いじゃない。明るい所できらきらしてキレイだし手ざわりが抜群にいい。寝ぼけてうっかり手を突っ込んだらアニマルセラピーみたいで癒された。今度は俺がドライヤーしてやろうか、何でもひとりですませちまうから……。
「テクニシャンって褒めてやりゃ満足か」
「どういたしまして。遊輔さんのドライヤー係になれますかね」
「俺専属?」
「御指名もらえれば喜んで」
「ただより高いもんはないんじゃなかったっけ」
「御褒美くれますよね」
擦れっ枯らしの皮肉にまるでこたえてない軽口を叩き、強から弱へ風圧を切り替える。火照ったうなじを微風がくすぐり産毛がそよぐ。気持ちいい。全身の筋肉が脱力気味にほぐれて安らぐ。だんだん瞼が重くなってきた。
「ヘアオイル塗ります?乾燥や摩擦ダメージを軽減できますけど」
「いらねえ」
至れり尽くせりの申し出をぶっきらぼうに蹴る遊輔をよそに、すっかり乾いた髪に指を通し、どこまでも丁寧に梳いて揃える。
「あ、若白髪めっけ。抜いちゃいますか」
「ハゲるからよせ」
不意に温風が遠のいてスイッチが切られ、物足りなさを埋め合わせるように首に唇が触れた。
はらりとタオルが落ちる。
「そんな魂胆だろうと思った」
だから嫌だったんだとぼやいても負け惜しみにしか響かない。ドライヤーのスイッチを切って脇に置き、遊輔を後ろから抱き締めてキスをする。寂しがり屋の大型犬に甘えられてるようなものだ。コイツは常にスキンシップに飢えてる。
「別に変なことはしてません。仕上がりを確かめてるだけ」
「言い回しが変態臭え」
鬱陶しそうに体を揺すって振り払いにかかるも、それはポーズだけだとお互い了承済みだ。遊輔は呆れ顔。
「コーヒー冷めちまうぞ」
「冷めても美味しいから構いません」
遊輔の胸に回した手を緩く組み、肩口にもたれた。
ともだちにシェアしよう!

