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第36話・お前のおかげで
「あの時はこの人が運命の番なんじゃ!? と思ったね」
「もしそうだったら家庭をひとつ壊してましたよ。違って良かったですね」
「現実的すぎかよ……」
思い出話の締めくくりに力強く言った藤ヶ谷に、先ほどまでは親身に相槌を打ってくれていた杉野が至極冷静な声を出してきた。
藤ヶ谷は完全に脱力してしまう。
様々な店が並ぶ大通りから住宅街に変わっている窓の景色を眺めながら、知らず知らずのうちに固くなっていた肩を解すために腕を上に伸ばした。
そして、改めて杉野の方に笑いかける。
「そういやお前も、大事な人がいるから手を出さないって、辛そうなのに我慢してくれたよな」
「いや、俺が大事なのは」
「お前のときは何故かヒートは収まんなかったけど、抑制剤くれて抱き締めてくれて……最後にオメガタクシーに乗せてくれたとこまで一緒だ」
言い淀む杉野を他所に、藤ヶ谷はひとつひとつ指折りながら思い出す。
蓮池とのことは最悪の記憶でもあったが、助けてくれた杉野の温もりの方が心に残っていた。
それは、初めてのヒートが外で起こって戸惑ったことよりも、アルファの男性が紳士的に対応してくれたときに感じたときめきの印象の方が強いのと似ていた。
そう思えるのは藤ヶ谷がポジティブな思考の持ち主ということもあるが、やはり助けてくれた杉野たちのおかげである。
「ほんと、お前には頭が上がらねぇよ」
「俺のは藤ヶ谷さんのためというか……っと」
細い路地から猫が飛び出してきたことに気が付いた杉野が、言葉を切ってブレーキを踏む。
反動で動いた藤ヶ谷の体を左手で支えてくれた。
気遣いに礼を言いつつ、藤ヶ谷は大学時代に出逢った男性に想いを馳せる。
「とにかくあの人が色々払拭してくれたんだよなー。こんな人と番になれるなら、オメガも悪くないなって」
「嫌だったんですか、オメガ」
率直に聞いてくる杉野に、藤ヶ谷は苦笑して頬を掻く。
「ヒートは全然来なかったし。どっかでまだ自分はベータなんじゃないか、そうであってほしいとは思ってたよ」
「意外です」
目を丸くした杉野には、藤ヶ谷はオメガであることに抵抗がないように見えるのだろう。
実際、今の藤ヶ谷はオメガであることを受け入れ楽しんですらいる。
だが、オメガの中には性別を悲観するものも多い。
第二の性がどんなに社会に浸透していようとも、自分の意思とは関係なく少数派に分類されるのは違和感があった。
「俺だって始めから受け入れられてたわけじゃねぇよ。両親はベータだし、オメガ学校でもデカい方だったし」
第二性の診断が出るまでは、自分をベータだと信じて疑っていなかったし周りもそう思っていた。
ヒートがこなかったために何度も性別検査をし、その度に変わらぬ結果にがっかりしていた。
それが、あの男性と出逢ってから変わったのだ。
「もう忘れらんなくなってさ。あの時の温もりと、優しい声と……色っぽいのに安心感がある香り」
あんな風にまた包まれたい。安心したい。
あんな人の愛情に満たされて甘えられたら幸せだろうと。
思い返す度に胸が温かくなった。
覚えている香りはもう鮮明ではないが、藤ヶ谷が好きな「おじ様のアルファ」からは似たような香りがする気がするのだ。
「というわけなんだよ」
「だいたい理解しました。初恋は忘れがたいですよね」
注意深く暗い周囲を確認しながら進んでいる杉野は、話し終えて満足げな藤ヶ谷に頷いた。
運転しているせいもあるが、質問したくせにそのポーカーフェイスは崩れず。
どういう感想を抱いているのかは分かりにくい淡々とした声で続ける。
「フェロモンは年齢と共に変質するから、おじさんの香りが好きになったってのもわかります」
「だろ?全然違うんだよ!」
目的地のマンションが見えてきた。
楽しげな藤ヶ谷を横目に杉野はスピードを落とす。
「でも愛情がどうとかは、年齢関係あります?」
藤ヶ谷の住むマンションの横に危なげなくピタリと停車し、真剣な表情を向けてきた。
「あ、お前もそう思う? そう! 俺は気づいたんだ! お前のおかげで!」
「俺の?」
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