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第58話・犬じゃないんだから

「ヒート中のオメガみたいな香りがした気がして」 「……そういうのは気のせいじゃなかったときにまずいな」  別人のように藤ヶ谷は冷静になった。  アルファの杉野がいうのだ。ヒート中のオメガ「みたいな」ではなく、本当にその香りの可能性が高い。  ここから香りの元まで距離があるのか、抑制剤で分かりにくくなっているのかは分からない。  少なくとも杉野の言う通り、体感的に藤ヶ谷自身ではなかった。 「頑張って匂いの出所を探してくれ」 「犬みたいに言われても……」  困ったように前髪を掻き上げた杉野だったが、藤ヶ谷が懸念していることは理解していた。  見ず知らずの相手だからといって見過ごしていい問題ではない。  勘違いだったならそれで済む話だと、香りを辿って境内の中でも人の居ない、竹藪の方に移動していく。  竹藪に近づいていくと、立ち入り禁止のチェーンが掛かっているのを見つけた。  杉野ははっきりとその向こうに視線を向けている。 「……あっちですね」  一応道はあるようだが、人の気配はなく背の高い竹のせいで薄暗くなっているのが入らなくてもわかる場所だった。  ここまでくると藤ヶ谷にも特別な香りが分かった。ただし、オメガのフェロモンよりは、アルファのフェロモンを強く感じる。  ヒート事故かもしれないと焦った藤ヶ谷は、繋いでいた杉野の手を離した。  そして、遠慮なくチェーンを跨ぐ。 「これ、絶対アルファも一緒にいるぞ! ちょっと行ってくるな!」 「待ってください。俺もいきます」 「危ないだろ!」  杉野に肩を掴まれて、藤ヶ谷は睨み上げた。  オメガである藤ヶ谷にはヒート中のフェロモンなどどうということはないが、アルファの杉野には効果覿面のはずだ。  藤ヶ谷なとって、杉野が巻き込まれてしまうのは最悪の事態に他ならなかった。  承知しているはずの杉野だったが、首を左右に振って譲らない。 「ラット状態のアルファが近くにいるんですよ。そこに藤ヶ谷さんが行く方が危ないです」  杉野は肩にかけていたボディバッグの中に手を突っ込み、小瓶に入ったアルファ用の抑制剤を取り出しながら言う。  いつも藤ヶ谷のヒートが近づくと飲んでいるものだ。  杉野の理性は折り紙付きだったが、藤ヶ谷は万が一を思う。  2人のラット状態のアルファが誕生してしまう危険性があるのだ。  そうなると、藤ヶ谷だけでは絶対に止められない。 (……いや、俺じゃ普通の状態のアルファ1人も止められないな)  事態は一刻を争うため、藤ヶ谷は杉野の手首を握って引っ張る。 「お前の理性と優一朗さんの薬を信じる」 「兄さんだけで作ったわけじゃないですけどね」  自信あり気に軽口を返してくる杉野を藤ヶ谷が小突いてから、2人で竹藪に入り込んだ。

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