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第66話・トラウマと
杉野が聞く姿勢になってくれたことが分かり、藤ヶ谷は落ち着かなげに右手で自分の左手首を握り締める。
「あんな、何されても反応する体なんて、気持ち悪くて」
自分で思っているよりも、掠れて弱々しい声が出てしまう。
心配をかけるようなことを言ってしまった自覚はあった。
だが、今の藤ヶ谷はどうしようもなく心が不安定になっている。
杉野に助けられたおかげで薄れていた記憶が、ヒート中の熱に喘いでいると頭をよぎるのだ。
「藤ヶ谷さん……」
「ごめんな、気を使わせるよなこんなん」
静かに名前を呼んでくれる杉野が、何を言うべきか迷っているのが分かる。
それすらも申し訳なかった。
藤ヶ谷は今、嘘は言っていない。
心が嫌がっても体が求めてしまう感覚が蘇ってしまうのは本当だった。
好きな人に裏切られたショックも、複数の手が伸びてきて手足を押さえられた恐怖も。
全部本当のことだ。
だが、それだけじゃない。
それ以上にヒート中に考えていることがある。
あの最悪の出来事の時に抱きしめてくれた杉野の腕の力強さや、クリスマスのホテルで感じた温もりや見てしまった下半身のライン。
ずっと杉野のことを考えて昨日の夜を過ごしていた。
だがヒート中にも正気に返る瞬間がある。
そうすると、杉野が他に好きな人がいることを思い出し、虚しくてたまらなくなった。
だからといって杉野のことを考えないようにすると、次は嫌なことを思い出すという負のループにハマってしまう。
(副作用は気になるけど、ただの同僚としてでも……本物の杉野と話せる方がましだ)
杉野の反応が怖くて項垂れていると、温かい手が頭に乗った。
「なにか、俺に出来ることはありますか」
柔らかい声と共に、あやすようにゆっくりと撫でられる。
心地良くて、藤ヶ谷は目を閉じた。
この手でもっと触ってほしい。
頭だけではなく、色んなところを。
(ヒートの時、一緒にいてくれって言えたら良いのに)
黙り込んでしまった藤ヶ谷を、杉野がそっと覗き込んでくる。
近くに息遣いを感じて目を開けると、想像していたよりも杉野の顔がアップで飛び込んできて息を飲んだ。
「藤ヶ谷さん?」
「大丈夫。ヤバそうだったら言うから、今日は会社にいさせてくれ」
藤ヶ谷がなんとか笑顔を見せると、いつもは強制的にタクシーに押し込んでくる杉野が珍しくアプリを閉じた。
「絶対ですよ」
耳元で聞こえた苦しそうな声に、胸がトクンと鳴る。
落ち着いていた体温が上がる心地がした。
人が増える前に杉野には秘密で抑制剤を追加した方が良さそうだと、藤ヶ谷はトイレに行くことにする。
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